静寂の英語と相羽のノート
二限目の英語のチャイムが校内に鳴り渡ると同時に、教壇に立った英語担当の稲葉先生が、手元の薄いプリントを一番前の生徒へと放るように一押しした。
『はい、今日はこのプリントをやっとけ。終わったら勝手に自習していいぞ』
教官席に腰を下ろしたヤイジ先生は、手元のカルテに視線を落としたまま、やる気なさそうに黒い指先でペンをくるくると回し始めた。教壇の上の気怠げな空気とは裏腹に、生徒たちはそれぞれの机に向かって静かにプリントを回し、手元を動かし始める。
教室の中はすぐに静寂に包まれた。天井のエアコンが吐き出す低い稼働音と、時折衣類が擦れる音や紙をめくる軽い音だけが、閉ざされた空間を穏やかに支配している。
多朗は自分の机の下で、周囲の目を盗むようにして一冊のB5サイズのノートをそっと開いていた。
それは、斜め前の席に座る相羽から借り受けたものだった。白紙のページを埋め尽くす、極めて整然とした数式と図形の羅列。一般的な高校生が見ればただの高度な大学数学の暗号にしか見えないその文字列は、先日部室で組み上げた立体回路の動作メカニズムや、複雑な空間解析の計算式そのものだった。
(相羽の頭の中はどうなっているんだろう。こんな複雑な数式を、自分の手で綺麗に組み立てられるなんて)
数式の美しさに圧倒されていると、多朗のすぐ前の席で、大きな背中を丸めてだるそうに頬杖をついていた剛田が、隣の席へと不器用に顔を向けた。
『おい相羽、シャープペンの芯が切れた。一本くれよ』
剛田の低い声が、静かな教室の中にぽつりと響いた。
その隣の席で淡々とペンを動かしていた相羽は、視線をプリントから外すことなく、冷ややかな口調で打ち返す。
『自分で筆箱から出しなよ。目の前にあるでしょう』
『いや、チャックを開けるのすら面倒くさいんだよ。頼む、恵んでくれ』
『どれだけ怠け者なの、あんたは』
相羽は呆れたように小さく息を吐きながらも、細い指先で自分のペンケースを開き、そこから黒いケースを取り出した。そして、剛田の机の上へとさりげなくそれを滑らせる。
『サンキュ、助かったぜ』
剛田も小さく笑ってそれを受け取り、ようやく自分のプリントへと向き直した。
どこにでもある、ごく普通の高校生たちのありふれた日常のやり取りだった。先日の地下室での不気味な出来事や妙な現象など、まるで遠い夢だったのではないかと思えるほど、目の前の光景は和やかで穏やかだった。
剛田に芯を渡し終えた相羽が、椅子の背もたれに体を少しだけ預けるようにして、ふと斜め後ろの多朗の方へと振り返った。眼鏡の奥の鋭く透明な瞳が、多朗の手元にある彼女自身のノートへと落とされる。
『何その顔。やっぱり全然わかってないでしょう、上宮くん』
『あはは、お見通しか。いや、英語をやろうと思っているんだけどさ、相羽のこのノートの数式がすごすぎてつい見入っちゃってさ。この前の工作の時も思ったけれど、本当に相羽の頭脳には助けられているよ。いつもありがとうな』
多朗が誤魔化すように笑いながら真っ直ぐにお礼を言うと、相羽は一瞬だけ丸い目を小さく見開いた。だが、すぐにいつもの涼しい表情へと戻り、ふいと横へ視線をそらす。
『別に。私はただ、一番効率の良い計算をしただけだし。それより早くプリントをやったら。終わらなかったら、放課後にヤイジ先生に捕まるよ』
『うわ、それは本気で勘弁してほしいな』
相羽はフンと鼻を鳴らして、すぐに前を向いた。
前を向いた彼女の視線は、自分の手元にあるシャープペンの先へと落とされた。
自分の持つ特殊な知識や計算能力を気味悪がりもせず、ただ真っ直ぐに素直な感謝を口にしてくれた多朗の言葉が、相羽の胸の奥にじんわりと温かく広がる。
テレビの中で政治家として多忙を極め、自分を厳しい教育環境に放り込んだ父親の存在や、複雑な家庭環境の影。そんな孤独や焦燥感を抱える自分に対して、多朗はいつだって一人のクラスメイトとして、裏表のない純粋な言葉をかけてくれる。
(本当に、変な奴……でも、この真っ直ぐな言葉に救われているのかもしれない)
胸の奥で急に小さく跳ねた鼓動を隠すように、相羽は少しだけ背中を丸めた。頬に昇りかけた微かな熱感をごまかすため、隣の剛田に向けて、いつものような強気のツッコミを入れる。
『剛田、さっき貸した芯、一本百円だからね』
『はあ!? 高っ! どんな暴利だよそれ!』
剛田の慌てた声が小さく響き、多朗は前を向いた相羽の背中を見ながら、いつも通りの二人のやり取りに可笑しそうに口元を緩めた。
『上宮くん、プリントが、一ミリも進んでいませんよ』
突然、すぐ右隣の席から楽しそうな声が滑り込んできた。
見ると、マナが長い髪をさらりと肩から滑らせながら、机に肘をついてこちらを覗き込んでいた。大きな瞳をパチパチとさせて、口元に小さないたずらっぽい笑みを浮かべている。
『マナ、何笑っているんだよ。そんなに面白いか』
『ふふ、はい。とっても微笑ましくて、なんだか嬉しくなっちゃいました。上宮くん、早くやらないと本当に居残りになりますよ』
マナはそう言って、純粋な笑顔のまま自分のプリントに視線を戻した。多朗は『分かったよ』と苦笑いしながら、ようやく英語のペンを動かし始める。
窓の外からは初夏の眩しい光が教室へと優しく降り注いでいた。その光は、静かに手元を見つめる少女の横顔と、それを見守る仲間たちの笑顔を、どこまでも温かく照らし出していた。




