遅延証明書と教師たちの覚悟
地下鉄成増駅の出口から地上へ出ると、むっとした初夏の熱気が肌にまとわりついた。多朗は駅の白い階段を上りきったところで、大きく息を吐き出す。
『完全にアウトね。時計、もう九時十五分を回っているわ』
横を歩く琴音が、制服のスカートの裾を軽く払いながら画面を睨んでいた。
『うん。一限のチャイム、とっくに鳴っちゃったな。和光市であれだけ止められたらどうしようもないよ』
『走る?』
『いや、今から全力疾走しても、一限の数学が半分以上終わっているのは変わらないよ。それに、この暑さの中で走ったら学校に着く前に汗だくになっちゃう』
『そうね。おとなしく歩きましょう。私たちは正当な理由で遅れたんだから』
琴音は駅の事務室で受け取った小さな薄い紙切れ、地下鉄線の遅延証明書を指先で挟んで見せた。多朗も自分の鞄のポケットから同じ紙切れを取り出し、角を整える。
住宅街の緩やかな道を歩く間、周囲には他の学生の姿は全くなかった。すれ違うのは犬の散歩をする住民や荷物を運ぶトラックだけだ。静まり返った通学路を歩いていると、自分たちだけが世界の時間から取り残されたような奇妙な感覚に陥る。
『後藤先生、今頃黒板にものすごい勢いで複雑な数式とか書いているんだろうな』
『そうね。最初の五分を聞き逃した生徒には容赦しない先生だから、教室の後ろの扉から入るの、ちょっと勇気がいるわね』
『職員室に直接行ったほうがいいんじゃないか。一限が終わるのを待ってさ』
『それが賢明ね。授業中に遅延証明書を持って入っていったら、他のクラスメイトの集中まで切らしちゃうし』
二人が都立成増航空高等学校の真新しい校門をくぐった時、校舎の窓からはかすかに教師の板書する声が響いていた。昇降口で上履きに履き替え、人気のない静かな廊下を進む。足音がコンクリートの床にコツコツと反響した。
一限の終了を告げるチャイムが校内に鳴り響いたのは、二人が職員室の前の廊下で待機し始めてから十分後のことだった。
ガラガラと音を立てて職員室の重い扉が開く。中からは授業を終えた教師たちが教材を抱えて次々と戻ってきた。その中に、ひときわがっしりとした体格の男がいた。数学を担当する後藤先生だ。
『あれ、上宮と神楽坂じゃないか。こんなところで何をしている。一限の授業はどうした』
後藤先生が二人の姿を見つけ、鋭い眼光を向けて足を止めた。多朗は一瞬だけ身を硬くしながら、手の中の紙切れを差し出した。
『すみません、後藤先生。東武東上線から地下鉄に直通する電車が、和光市駅で完全に止まってしまいまして。これが遅延証明書です』
後藤先生は多朗と琴音からそれぞれ紙切れを受け取り、そこに印字された日付と時間をじっと見つめた。
『和光市か。確かにかなり大幅に乱れていたようだな』
後藤先生は紙切れをポケットに仕舞うと、腕を組んで多朗の顔を正面から見量った。
『大変だったな。和光市で結構長く止まっていたようだが、何があったんだ』
『ええ、前の車両で救護活動があったみたいで。スマホの電波も急に悪くなっちゃってよく分からなかったんですけど』
『そうか。まあ、無事ならいい』
後藤先生はそう言うと、ふっと視線を柔らかくし、多朗の肩のあたりを軽く叩いた。
『それより上宮、お前、部活はどうするんだ』
『え? いや、まだ何も決めてないですけど』
唐突な話題の転換に、多朗は目を丸くした。横の琴音も少し意外そうな表情で教師の顔を見上げている。
『体育の授業で必死に走りきったあのスタミナは本物だぞ。何か入る気はないのか? うちの運動部ならどこでも大歓迎だ』
『あはは、あれはただ必死について行っただけで、球技も格闘技も全然ダメなんです。ただの運動音痴ですよ』
多朗は頭をかきながら苦笑いした。
『謙遜するな。せっかくの高校生活だ、何か打ち込めるものを見つけて全力で楽しめ。ほら、二限目が始まるぞ。早く教室へ行け』
『はい、失礼します』
後藤先生の意外なほど温かい言葉に背中を押され、二人は職員室の前を離れた。階段を上りながら、多朗は小さく呟く。
『なんか調子が狂うな。もっと怒られるかと思ってたよ』
『本当にね。でも、後藤先生、普通のいい先生でよかったじゃない。さあ、二限目の準備を急ぎましょう』
二人の足音が階段の向こうへと消えていった。
その頃、職員室の奥にある第一準備室の重い扉が閉められた。室内には授業の合間の静寂が満ちている。
パイプ椅子に腰を下ろした後藤の元へ、英語教師の稲葉がのんきな足取りで近づいてきた。手には生徒たちの資料が握られている。窓際では腕を組んだまま外を眺めている石田と、静かにお茶をすすっている山口の姿もあった。
『カズ、上宮たちの様子はどうだった』
稲葉が低い声で問いかけた。
『ああ。上宮たちは何も気づいていない。和光市駅の件もただのトラブルだと思っているな』
後藤の報告を聞き、石田がゆっくりと振り返った。
『そうか。駅の裏で怪しい動きがあったなんて、子供たちに分からせる必要もないか』
『あいつら、中身はただの呑気な高校生だな』
稲葉が苦笑しながら資料を机に置いた。山口が湯呑みを置き、静かな口調で言葉を挟む。
『それでいいんだよ、ヤイジ。あいつらはまだ高校一年生になったばかりだ。世の中のきな臭い事件や危険になんて、一ミリも巻き込む必要はない』
『そうだな』
後藤は窓の外、グラウンドで体育の授業を始める生徒たちの様子をじっと見つめた。
『上宮のやつ、自分の身体の凄さも自覚していない。ただの運動音痴だと言い張っていたよ』
『カズ、本気で運動部に誘おうとしていたのか』
石田の問いに、後藤は小さく笑った。
『ああ、本気だ。きな臭い事件なんかに首を突っ込むより、普通の部活で思いきり汗を流して、泥にまみれて、ただの高校生として普通の青春を全力で謳歌させてやりたいからな。俺たちの仕事は、そのための平穏を守ることだろ』
『全くだ。英語の授業で居眠りする上宮を起こすほうが、よっぽど有意義だよ』
稲葉が肩をすくめ、準備室の中に小さな笑い声が広がった。日常の裏側で静かに動く教官たちの眼差しには、生徒たちを危険から遠ざけようとする温かい覚悟が満ちていた。




