1 限目の数学は絶望的、だけど僕たちの満員電車が止まった理由は誰も知らない
『ちょっと多朗、早くしなさいよ。何をぼんやり立ち止まっているの』
背後から飛んできた琴音の少し尖った声が、六月の湿った朝の空気を震わせた。多朗はアスファルトの舗装路を見つめたまま、首を傾げる。
『いや、なんかさ、ここの土だけ妙に不自然に乾いている気がしてさ。昨日、夜中に突風でも吹いたのかなと思って』
『そんなの知らないわよ。昨日だって普通の天気だったじゃない。それより、今日の一限目が何か忘れたわけではないでしょうね』
『ええと、確か数学だったっけ』
『そう。遅刻に対して人一倍厳しい、あの後藤先生の数学よ』
多朗は思わず首をすくめた。背負った黒い鞄の重みを肩でしっかりと支え直す。鞄の底には、クラスメイトの相羽が貸してくれた技術ノートが静かに収まっていて、歩くたびにその硬い角が背中に当たった。
『分かっているって。後藤先生の授業は、最初の五分を聞き逃したらその後の複雑な数式が完全に理解できなくなるからな。抜き打ちの小テストがある日だったら本気で終わりだ』
『分かっているなら足を動かす。ほら、置いていくわよ』
琴音は制服の襟元を少し気にしながら、独自の歩調を崩さずに先を歩いていく。多朗はその背中を追いかけて足を速めた。
朝霞駅の改札口は、周辺の住宅地から集まってきた通勤客や通学中の学生たちで酷く混雑していた。自動改札機を通過する電子音が規則正しく波のように響く中、人々は吸い込まれるように階段を上り、鉄路のプラットフォームへと向かっていく。多朗と琴音もその人の列に自然と混ざり、滑り込んできた東武東上線の車両へと乗り込んだ。
『うわ、今日いつもより混んでないか』
『文句を言わないの。六月なんていっつもこんなものよ。ほら、もっと奥に詰めて』
『押さないでくれよ、鞄の中のノートが潰れる。相羽が貸してくれた大切な実験データなんだから』
『そんなこと言ったって、後ろからどんどん人が乗ってくるんだから仕方ないじゃない』
車内はすし詰めの満員だった。吊り革を掴む余裕すらなく、乗客たちは互いの肩や背中を寄せ合うようにして揺れに耐えている。周囲からも衣服が擦れる音や短い吐息が漏れていた。
列車は定刻通りに発車し、次の目的地である和光市駅へと向かって徐々に速度を上げていった。窓の外には見慣れた風景が流れていく。
『ねえ多朗、和光市に着いたら、そのまま地下鉄直通に乗ってたほうがいいわよね』
『うん、そのほうがいい。成増で降りるより、地下鉄のほうが学校まで少しだけ近いからね。一分一秒を争う今日は、地下鉄一択だよ』
『そうね。あっちなら無駄な信号待ちがないだけでかなり違うしね』
列車が和光市駅のプラットフォームに滑り込み、音を立てて扉が開いた。乗客の三分の一ほどが入れ替わり、再び重い扉が閉まる。あとは地下へと滑り込み、数分で目的の駅に着くはずだった。
しかし、発車を知らせる警告音が響いた直後、車両の底から鈍い衝撃が伝わり、列車は不自然な形で急停車した。
『きゃっ』
『おっと、危ない。琴音、大丈夫か』
『ええ、なんとか。でも、今、発車しかけて止まらなかった?』
『うん。急ブレーキをかけた感じでもないけど、何かあったのかな』
車内の照明が一瞬だけ微かに瞬き、乗客たちの間にざわめきが広がっていく。すぐに天井のスピーカーから無機質な音声が流れてきた。
『ただいま、前の車両にお客様が体調を崩されたため、救護を行っております。発車までしばらくお待ちください』
『救護活動だって。誰か倒れちゃったのかな』
多朗は心配そうな声を出しつつも、すぐに左手首の腕時計に目を落とした。
『困ったな。和光市で三分以上の停車は、僕たちの遅刻が完全に確定することを意味するんだけど』
『ちょっと、スマホで運行情報を見てみてよ。私の位置からじゃ鞄から取り出せないわ』
『待って、今見る。あ、画面が更新されないな。接続中を示すマークがぐるぐる回ったままだ。電波が妙に悪いぞ』
『嘘でしょう。こんな大きな駅なのに通信がつながらないなんて』
多朗が画面を何度も再読み込みしているその時、プラットフォームの端の死角で何かが動いた気がした。多朗が窓の外へ目を向けた瞬間、ホームの暗がりの影が一瞬不自然に揺れ、灰色の服を着た不審な人物が数人の手によって壁際に押し付けられたような奇妙な違和感が走る。しかし次の瞬間には街灯の点滅とともに元に戻り、何事もなかったかのような静寂が戻っていた。
『ねえ多朗、外の様子はどう?』
『うーん、窓の外はただの灰色の壁しか見えないよ。向かいのホームの人たちも、みんな困った顔をして画面を眺めてる。本当に電波が落ちてるみたいだ』
『私のほうも駄目ね。全く繋がらないわ』
琴音は諦めたようにため息をついた。
『動かない電車のなかで待つのって、本当に体力を削られるわね』
『うん、冷房の風もなんだか弱くなってきた気がするよ』
『遅延証明書をもらっておけば公欠扱いにはなるかもしれないけれど、後藤先生のあの厳しい顔を想像するだけで胃が痛くなってくるわ』
『おとなしく遅延証明書を盾にして、事情を説明するしかないよ』
車両がガタリと小さく揺れたが、扉は閉まったままで再び重い沈黙が訪れる。車内の乗客たちからも溜息や苛立ちの気配が漏れ始めていた。
『あ、電波が一本戻ったわ。多朗、運行情報は』
『ええと、あ、出た。地下鉄直通線、運転見合わせだって。理由は車内救護って書いてある。再開見込みは未定か』
『未定ね。これで完全に証明が立つわ』
多朗は小さく息を吐き、スマホをポケットに仕舞った。鞄の中の相羽のノートが押し潰されないよう腕の中で調整しながら、動かない電車の中でただ静かに運転再開の時を待っていた。




