地下実験室の歪みと蠢く影
朝のホームルーム前の静けさが漂う旧校舎。多朗は鳴海先輩とともに、ひんやりとした冷気が足元から這い上がってくる地下通路を下っていた。多朗の手には、先日部室で組み上げたあの銀色の異形真空管と、立体幾何学回路が取り付けられた重厚なケースが抱えられている。
天井に等間隔で吊り下げられた古い裸電球が、チカチカと不規則な明滅を繰り返していた。コンクリートの壁表面が一瞬だけドットの欠けたような不自然なノイズを走らせる。まるで世界の解像度が急激に落ちているような、不気味な感覚だった。
(この地下廊下、いつ来ても不快な冷気が溜まっているな。それに右手の指先がまた冷たく痺れてきた)
『上宮、足元に気をつけなさい。この地下の特別実験室なら、旧式の大型電源装置があるわ。私たちが組み上げたこのパーツがどんな周波数帯の出力を示すのか、正確に測定できるはずよ』
鳴海先輩が黒髪を揺らしながら、静かな足取りで先頭を歩く。その表情はいつものように一切の感情を読ませない静かな笑みを湛えているが、目の奥にはどこか冷徹な光が宿っていた。
通路の突き当たりにある重い鉄扉が、わずかに隙間を開けて解放されていた。中から複数の男たちの話し声が漏れ聞こえてくる。
『カズ、例のラインの電圧調整はこれでいいのか。第一段階の出力を上げすぎると、生徒たちの身体が保たないぞ』
『キヨシ、心配しすぎるな。個体差はあるが、基準値を超えている奴らならこの程度の負荷には耐えられる。ヤマさん、予備の変換器の調子はどうだ』
『まあまあだな。ヤイジ、お前の方の計測器もバックアップに回しておけ』
多朗は足を止め、鉄扉の隙間から中を窺った。中にいたのは、体育の稲葉先生、技術の山口先生、そして教頭の石田先生と後藤先生だった。彼らは学生時代からの同級生であり、校内でもお互いを『カズ』『キヨシ』『ヤイジ』『ヤマさん』と親しげに愛称で呼び合う仲だ。しかし、いま交わされている会話の空気は、通常の学校教員のそれとは明らかに一線を画していた。
(先生たちが全員集まって、何を調整しているんだ? 生徒の身体が保たないって、一体どういう意味なんだろう)
『何をしている、上宮』
背後の暗がりから、掠れた低い声が響いた。多朗がハッとして振り返ると、そこには二年生の榊先輩が立っていた。榊先輩は呼吸を荒く乱しており、制服の首元からは赤紫色の熱感を帯びた斑点のようなものが覗いている。額にはびっしょりと冷や汗が浮かんでいた。
『榊先輩。大丈夫ですか、顔色がすごく悪いです』
『余計なお世話だ! お前みたいな一年生が、なぜこんな地下にいる。カズたちもお前ばかり特別扱いしやがって』
榊先輩は多朗が抱えている部品ケースと、多朗の右手へ憎々しげな視線を向けた。その瞳には、隠しきれない焦燥と激しい嫉妬の色が渦巻いている。
『私たちは部活のテストで実験室の電源を借りに来ただけです。榊先輩こそ、体調が悪いなら保健室へ行った方がいいのでは』
鳴海先輩が静かに割り込み、榊先輩を冷ややかに見据えた。
『フン、保健室で治るような代物じゃねえんだよ。俺の身体の中で何かが暴れ回っていやがるんだ』
榊先輩が多朗に詰め寄ろうと一歩踏み出した瞬間、多朗の抱えていたパーツが異様な音を立て始めた。
キィィィン!
地下室の奥にある大型電源装置と共鳴するように、真空管が青白く不気味な光を放ち始める。
(な、なんだ? 右手が勝手に熱くなって、ケースの中のパーツが共鳴しているのか?)
青いスパークがパチパチと飛び散り、地下室全体の空気が急激に凍りつくように冷え込んだ。視界全体がモザイク状に激しく明滅し、壁や天井の輪郭がぐにゃりと歪む。
『うぐっ、頭が!』
榊先輩が頭を押さえて膝をついた。
『おい、何の音だ!』
鉄扉が勢いよく開かれ、後藤先生たちが飛び出してきた。後藤先生は多朗の抱える光るケースと空間の異変を目にすると、素早く奥の大型スイッチを叩き落とした。
バチンッ!
強烈な遮断音とともに青い光が消え去り、空間の激しい歪みがゆっくりと収まっていく。
『上宮、鳴海! お前たち、勝手に地下の電源に回路を繋ぐんじゃない! 高電圧のサージ電流が流れて危険だろうが!』
後藤先生が荒々しい声で一刀両断するように叱りつけた。普段の温和な顔つきとは違う、射抜くような鋭い眼光だ。
『すみません、後藤先生。工作パーツの動作確認をしようと思ったのですが』
多朗が頭を下げると、石田先生が後藤先生の肩を叩いた。
『カズ、まあいいじゃないか。怪我がなかっただけでも儲けものだ。さあ上宮、榊も、もうすぐ朝のホームルームが始まるぞ。早く教室へ戻りなさい』
山口先生と稲葉先生が苦しむ榊先輩の肩を抱え、奥の部屋へと連れていく。榊先輩は去り際、多朗に向けて恨めしげな視線を残していった。
地下通路を上り、地上からの朝日が差し込む校舎へと戻ってきた。多朗の手には、すっかり冷え切ったパーツの重みだけが残されている。
(高電圧のサージ電流。先生たちはそう言ったけれど、絶対にそれだけじゃない。あの光と空間の歪みは、一体なんだったんだ)
多朗は自身の右手を見つめた。静まり返った指先の奥で、微かな高次元のノイズのような予兆が、不気味に低く響き続けていた。




