定食屋さわやの熱気と街の重鎮
紺色の暖簾をくぐると、店内は夕方の心地よい熱気と香ばしい出汁の匂いに包まれていた。使い込まれた木製の長机が整然と並び、壁には手書きの品目表が所狭しと貼られている。昭和の面影を色濃く残した下赤塚の定食屋『さわや』の空間が、歩き疲れた多朗たち一行を温かく迎え入れた。
『ただいま、ばあちゃん! 部活の仲間をたくさん連れてきたぜ!』
剛田が暖簾をくぐるなり、大きな声を張り上げた。厨房の奥から白い割烹着を腰できゅっと結び、深い皺の刻まれた顔に豪快な笑みを浮かべた老婆が姿を現した。店主であり、剛田の祖母である規久子ばあさんだった。親しみやすい街の老婆そのものの佇まいだが、その鋭い眼光が一瞬だけ多朗の全身を観察するように動いた。
『おや、猛かい。多朗まで一緒になって、学校の仲間を連れて帰ってきたのかい。ずいぶんと賑やかな大所帯だねえ』
『規久子さん、お邪魔します。部活の先輩やクラスの友人たちです』
多朗が頭を下げると、規久子ばあさんは満足そうに鼻を鳴らした。
『相変わらず礼儀正しいねえ、多朗は。うちの猛も見習ってほしいよ。ほら、奥の長机にみんなで詰め込んで座りな。今、美味い飯を山盛り作ってやるからね』
『がはは! ばあちゃん、俺はいつも通りから揚げの大盛り定食な! 腹が減って背中と腹がくっつきそうだぜ!』
剛田が自分の家のように手慣れた動作で奥の丸椅子に腰掛けると、他の面々もそれに続いて席に着いた。多朗が腰を下ろすと、右隣にはマナが静かに滑り込み、左隣には琴音が自然な動作で腰掛けた。琴音は鞄を足元に置くと、長旅で疲れた息を軽く吐き出し、多朗の顔を覗き込んだ。
『多朗、今日は部活のあとにずいぶん歩いたからお腹が空いたわね。ちゃんと栄養のあるものを食べないと駄目よ』
『ああ、そうだな。さわやの飯なら間違いないよ』
(琴音が怒らずに普通に話してくれると、なんだかホッとするな)
正面には鳴海先輩と相羽が向かい合って座り、長机の端には九条が静かに収まった。
『上宮君、注文は大盛り納豆定食をお勧めします。発酵食品の摂取は体内環境を整え、明日の活力に直結します』
マナが多朗の隣で静かな口調で言った。
『納豆もいいけど、多朗は野菜もしっかり食べなさいよ。肉野菜炒め定食とかも美味しそうじゃない』
琴音が品目表を見上げながら助言する。
『じゃあ、大盛り納豆と肉野菜炒めの両方にしようかな』
『ふふ、上宮。私の特製のお浸しも分けてあげるわね。身体の調子を整えるのにとても効果があるのよ』
正面の鳴海先輩が静かな笑顔で身を乗り出してきた。相羽は胸ポケットからノートを取り出し、鉛筆を走らせている。
『興味深いね。上宮くんの食事選びと周囲の反応。歩行後の代謝の上がり方や精神状態の観察データとして記録しておこう』
『相羽、メシを食うときまでノートを取らなくてもいいだろ』
多朗が苦笑していると、厨房から規久子ばあさんが大きな盆を抱えて戻ってきた。
『ほらよ、待ち兼ねた飯だ! 多朗には大盛り納豆と、特製の肉野菜炒めだよ。しっかり食って、細胞の隅々まで元気にしな!』
盆の上に並んだ料理からは、食欲を激しくそそる香ばしい湯気が立ち上っていた。一口食べると、歩き疲れた身体の芯からじんわりと力が湧き上がってくるような、不思議な風味が口いっぱいに広がる。
(うまい。なんだか体の奥が温かくなって、右手の冷たい痺れが和らいでいく感じがする)
『うわあ、やっぱりうちの店の飯は最高だな! いただきます!』
剛田が箸を伸ばし、白米を口に放り込んだ。他のみんなも一口ごとに満足そうな表情を浮かべ、和やかに箸を動かし始める。過剰な喧喧囂囂もなく、穏やかで温かい食卓の時間が流れていく。
『おいおい、随分と景気の良い食卓じゃねえか。規久子姉さん、俺にも冷や奴と生ビールをくんねえな』
その時、定食屋の古い引き戸が勢いよく開き、夕方の涼しい風と共に圧倒的な威圧感が店内に流れ込んできた。
現れたのは、どっしりとした体躯を持つ、背中に高い山のような圧倒的な気配を隠した男、鉄山組長だった。銭湯から上がったばかりのようで、首に手拭いを巻き、肌からは微かに熱気が立ち上っている。その眼光は、見た者を一瞬で竦み上がらせるほどの鋭さを持っていた。
『なんだ、鉄山の小僧かい。相変わらず図体ばかり大きくて騒々しいねえ。うちの食堂で大声を出すんじゃないよ』
規久子ばあさんが冷たくあしらうと、街の者たちが恐れる恐怖の組長が頭を掻きながら苦笑いを見せた。
『勘弁してくれよ、姉さん。お、猛じゃねえか。それにそっちの小僧たちがクラスメイトだな』
鉄山組長が鋭い眼光を多朗たちに向けた。剛田が嬉しそうに声を上げる。
『鉄山の親分! こいつらが俺の親友の上宮たちです!』
『ほう、お前が上宮の小僧か』
鉄山組長は多朗の前に歩み寄り、その肩を大きな手でドスンと叩いた。ずっしりとした衝撃が伝わる。
『美味そうに飯を喰うじゃねえか。男ならもっと背筋を伸ばして、どんと構えろ! しっかり飯を喰って体を作っておかねえと、いざという時に大切な者を守れねえぞ!』
『は、はい! ありがとうございます!』
多朗が恐縮しながら答えると、隣のマナが静かに鉄山組長を見つめた。
『鉄山氏の言葉は理にかなっています。上宮君の体力を高めることは重要です』
『がはは! このお嬢さんはハッキリしていて気に入ったぜ!』
鉄山組長は大笑いしながら空いている席に腰掛け、規久子ばあさんが運んできた冷や奴に醤油を注いだ。
店内は心地よい活気と温かさに満たされていた。相羽の科学的な雑学、鳴海先輩の静かな微笑み、美味そうに飯を頬張る剛田、そして穏やかに多朗の食事を見守る琴音とマナ。街の大人たちからの温かいいじりを受けながら、多朗はこの賑やかで愛おしい日常の空間に深い心地よさを感じていた。
夜の帳が下りる下赤塚の街で、多朗たちの瑞々しい高校生活の一幕は、穏やかに更けていくのだった。




