古本屋の妖婦と共鳴する真空管
放課後の西日が赤く傾き始める頃、多朗は下赤塚寄りの川越街道沿いにひっそりと佇む、古い古本屋の店内に入っていた。
街道を行き交うトラックの重い走行音が遠くで低く響く以外は、静まり返った空間である。店内に足を踏み入れると、無数の古書が発するカビと古い紙の独特な匂いに混じって、どこか甘く妖しい煙草の香りが鼻腔をくすぐった。
棚の角に積み上げられた黄色く変色した古い本の間から、多朗は一冊の分厚い専門書を手に取り、熱心にページをめくっていた。大正時代に出版されたという電気回路と高周波技術に関する古い図面集だ。
(あの技術室ではんだ付けをした時、俺の右手は止めようとしても勝手に動き、見たこともない複雑な立体回路を組み上げた。そして昨夜の朝霞での恐怖といい、今も右手のひらの奥で燻り続けているこの冷たい痺れと不気味な熱量は何なんだ。この街で起きている不具合や記憶の改変と、俺の右手に起きた異常は絶対に繋がっているはずだ)
多朗は胸の内で重く呟き、ページに描かれた複雑な配線図を目で追った。しかし、本に記載されている大正時代の技術体系では、あの瞬間に脳裏に閃いた高次元の幾何学模様や数式を説明することなど到底不可能だった。
『おや、上宮のボウズじゃないか。うちのマナちゃんを差し置いて、そんな埃っぽい図面に夢中になるなんて、相変わらず変わった子だねえ』
帳場の方から、耳の奥に心地よく染み渡るような、艶やかで甘い声が響いた。
視線を向けると、低い机の前に腰掛けた着物姿の美女・応為が、長管の煙管を指先で優しく揺らしながらこちらを見つめていた。透き通るような白い肌と、薄い唇に塗られた朱色の口紅が、夕闇の迫る古い店内で異様なほど艶やかに浮き立っている。
(応為さんは、マナの親戚のお姉さんで、マナは旭町にあるこの人の家に下宿しているって話だけど、いつ見ても浮世離れしていて底が知れないんだよな。マナたちが身を寄せる旭町の神社には、あの不気味な校長先生もいるっていうし、この人たちの周りだけ明らかに空気の密度が違う気がするぞ)
多朗はヘタレらしく首筋を縮めながら、小さな声で返答した。
『あ、どうも応為さん。ちょっと学校の宿題で調べたいことがあって、古本を探していたんです』
『ふうん、宿題ねえ。ボウズのその右手の奥でピリピリと渦巻いている、人間様には扱いきれないはずの異質な回路の熱も、学校の宿題と関係があるのかい』
応為は細い煙管の先から紫煙を静かにくゆらせ、細めた瞳で多朗の右手をじっと見つめて言った。
その言葉に、多朗の心臓が激しく跳ね上がった。右手のひらの痺れのことなど、誰にも話していないはずだった。だが、この応為という女性は、まるで多朗の皮膚の裏側でうごめく微細なエネルギーの乱れすらも、最初からすべて見抜いているかのような口ぶりなのだ。
『な、何のことですか、応為さん』
多朗が慌てて右手を背後に隠そうとした、まさにその時だった。
ガタガタガタッと、店の古い木製の引き戸が激しい音を立てて開いた。
『上宮! こんなところにいたのね! 探したわよ!』
飛び込んできたのは、ジャンククラフト部部長の鳴海先輩だった。ボサボサの髪をさらに散らし、制服の袖を捲り上げた鳴海は、興奮で瞳を輝かせながら多朗の元へと大股で駆け寄ってきた。
『鳴海先輩。一体どうしたんですか、そんなに息を切らせて』
『いいからこれを見てちょうだい! 成増の高架下の鉄くず置き場を漁っていたら、とんでもない掘り出し物を見つけたのよ!』
鳴海がポケットから取り出し、多朗の目の前へ強引に突き出してきたのは、見たこともない奇妙なパーツだった。
外見はガラス製の真空管に似ているが、内部の金属配線がまるで有機物の神経細胞のように異形に捻じ曲がり、鈍い銀色の光を帯びていた。全体が微小な高周波の振動を起こしているのか、空気そのものが歪んで見える。
『これ、何なんですか。普通の真空管じゃないですよね』
『そうよ! 形式番号も製造国の刻印も一切存在しないわ! それに、この金属部分を手で持っているだけで、皮膚の表面がピリピリと痺れてくるの! これは間違いなく、私達の航空技術を根底から変える未知のデバイスよ!』
鳴海が興奮気味に声を張り上げ、その歪んだ真空管パーツを多朗の手元へと押し付けた。
多朗が不意にその鈍く光るパーツに指先で触れた、その瞬間だった。
バチッと、小さな青い放電のような衝撃が指先を刺した。
直後、多朗の右手のひらの奥に眠っていたあの冷たい痺れと怪しい熱量が、凄まじい勢いで脈打ち始めた。指先から腕の神経を通って脳髄へと、濁流のような高次元の演算データが逆流してくる。
(うわっ、なんだこれ! 右手がパーツと勝手に反応して熱くなっている! 頭の中に、また見たこともない立体図面や数式が次々と流れ込んでくるぞ!)
多朗は息を呑み、急激な目眩に耐えるようにその場に踏みとどまった。右手の指先が勝手に動き出し、パーツの表面を撫でるようにして微細な振動の周波数を合わせようとしている。
『ふふふ、やっぱりね。その不吉な機械の破片は、多朗くんの手と引き合いに来たのよ』
店の奥の暗がり、高く積み上げられた古い全集の影から、1年A組の九条が音もなく静かに姿を現した。
彼女はいつものように虚ろな瞳で多朗を見つめ、細い指先をゆっくりと空中へ向けた。
『このお店には、お天道さまの網の目をすり抜けた不吉な電波が集まってくるの。多朗くんの右手からも、不完全な世界に拒絶された機械の幽霊の悲鳴がはっきりと聞こえるよ』
『九条! あなたまでなんでここにいるのよ! 幽霊だの電波だの、科学的な根拠のないオカルトを語るのはやめなさい! これは人類の未知なる技術革新の第一歩なのよ!』
鳴海が九条に向けて言い返す。しかし九条は首を横に振るだけで、関心なさそうに棚の古本へ視線を戻した。
帳場で見守っていた応為が、トントンと煙管の灰を灰皿に落とし、妖しく艶やかな笑みを深めた。
『鳴海ちゃん、科学なんてものはね、人間が自分たちの小さな頭で理解できる範囲に都合よく切り取った幻に過ぎないのさ。この世にはね、人間の作った浅はかな網の目をすり抜ける未知の時間の巡り合わせや、高次元の意思というものが確実に存在するのだよ』
応為の言葉は、まるで世界の裏側に潜む絶対的な真理を語っているかのような重みに満ちていた。その瞳の奥が一瞬だけ、人間を超越した冷徹で深遠な光を帯びたのを、多朗は見逃さなかった。
直後、多朗の右手と鳴海の持ち込んだ真空管パーツが強く干渉を起こし、足元の床板から地鳴りのような微かな振動が伝わってきた。
ジジジッ、と不快な雑音が走り、古本屋の天井から吊り下げられた裸電球が、壊れた液晶画面のようにチカチカと不気味に明滅を始めた。
『きゃっ、地震かしら!? それとも街灯の電圧低下なの!?』
鳴海が天井を見上げて声をあげる。
だが多朗には分かっていた。これは地震でも電圧低下でもない。自分の右手とこの異形なパーツが接触したことで、成増や旭町、下赤塚を包み込んでいる世界の解像度と空間の構造そのものが、破綻に向かって大きく歪み始めた証拠なのだ。
『上宮、何を呆けているの! このパーツを技術室に持ち込んで、私の特製計測器で徹底的に分解解析するわよ!』
鳴海が興奮した様子で多朗の肩を強く叩き、古本屋の出口へと引っ張っていく。
『あ、ちょっと待ってください、鳴海先輩!』
多朗は右手のひらに残る激しい痺れと熱量を隠しながら、引きずられるようにして川越街道の雑踏へと連れ出された。
夕闇が迫る街並みを見上げると、街灯の橙色の光の向こうで、やはり四月の空が微かにチカチカと不気味に明滅していた。逃れられない世界の激変と破綻の予感に、多朗はただ背筋を凍らせて、冷や汗を流し続けることしかできなかった。




