脳腸相関と爆笑の暴露大会
トランプ大統領の衝撃的な宇宙人情報公開ニュースから一夜が明け、世間の熱狂と不穏な空気が冷めやらぬ翌朝。
多朗は、自分の右手のひらを机の下でそっと開いたり握ったりしていた。一昨夜、朝霞の暗い夜道で自分を追ってきた正体不明の足音の恐怖、そして右手の奥で不気味に燻り続ける冷たい痺れ。日常の裏側で何かが確実に狂い始めているという確信が、多朗の胸を重く締め付けていた。
(トランプのニュースでみんな浮かれているけど、俺の身の回りでは着実に嫌なことが進行しているぞ。平穏な日常に戻りたいのに、どんどん底なしの沼へ引きずり込まれていくみたいだ)
多朗が胸の内で鬱々と呟いていた、まさにその時だった。
『おい多朗、昨日の大統領の宇宙人話もとんでもねえけどよ、今朝は国内のネットでさらに気味が悪い噂が拡散されてるぞ』
斜め前の席の剛田が、椅子を激しく鳴らして突如振り返った。その手には使い込まれたスマホが握られており、情報の集まる掲示板の画面を多朗の顔の前に無理やり突きつけてくる。
『なんだよ剛田、朝からそんなに大声を出すなよ。今度は一体どこで何が起きたっていうんだ』
『国内のニュースだよ。今、九州の地域を中心に、お腹にくる特殊な風邪が猛烈に流行しているらしいんだ。ただの病気じゃなくて、感染した奴がみんな急に口数が少なくなって、それまでの好物が一変しちまうらしいんだよ。まるで中身が丸ごと入れ替わったみたいだって、ネットの掲示板で大騒ぎになってるんだ』
『はあ? 風邪をひいて性格や好みが別人に変わるなんて、そんなのあり得ないだろ。剛田、お前また怪しいオカルト系のデマに踊らされてるんじゃないのか』
多朗が呆れて苦笑いした瞬間、通路を挟んだ向こう側の席から鋭い言葉が飛んできた。
『単なるデマや都市伝説として切り捨てられないから言っているのよ。上宮くん、脳腸相関という言葉を聞いたことはないかしら』
声の主は相羽だ。いつも活動的に剛田の的外れな言動をぶった切る彼女だが、あの地下室の隠された空間の歪みをいち早く探知したのも彼女だった。相羽は手元のノートを強めに閉じ、多朗たちの方へと身を乗り出してきた。
『のうちょう、そうかん? なんだよそれ、また難しそうな専門用語を出すなよ、相羽』
剛田が太い腕を組んで不満そうに唸る。相羽は眼鏡の奥の切れ上がった瞳を鋭く光らせて言葉を続けた。
『人間の腸内細菌のバランスは、脳の機能、つまり過度なストレスや精神の安定度と密接に結びついていることが最新の医学で証明されているの。腸内環境が劣悪な人間は、それだけで精神的な耐久力に不具合が出て、外からの悪意や未知の不純物に屈しやすくなるのよ。もし仮に、あの地下室で後藤教官が口にしていた選別っていうのが、単なる肉体の強さじゃなくて、精神の強靭な生徒を裏で炙り出すためのものだとしたら、その大腸に寄生して人間を乗っ取る未知の細菌の話も繋がってくるわ』
相羽の言葉に、多朗の心臓がどきりと嫌な音を立てた。選別。あの恐ろしい人間実験の現場で響いた不穏な言葉が、一昨夜の朝霞の夜道の恐怖と不気味に重なり合う。
『ちょっとあんたたち、朝から何をそんな現実離れした気味の悪い話で盛り上がっているのよ』
多朗のすぐ前の席に登校してきた幼馴染の琴音が、カバンの底を机の上にドサリと置くと、くるりと振り返って腕を組んで睨みつけてきた。
『琴音、お前も聞けよ。大腸が未知の細菌に乗っ取られる恐ろしい事態の幕開けかもしれないんだぞ』
剛田が焦ったように言うと、琴音はわざとらしく両手を大きく広げてみせた。
『お腹の風邪で人間が変わるなんて、本気で信じているわけ? どうせただの集団食中毒か何かの間違いに決まっているじゃない。そんなわけのわからない細菌の話なんて、私たちの学校生活には何の関係もないわよ。大体、私達にとっては、今日の不意打ちの小テストをどう回避するかの方がよっぽど大きな死活問題よ』
琴音はいつもの強気な口調で言い放ち、多朗たちの談義をくだらないと一蹴した。そして前の自分の席でつんと顔を背け、強情に小テストの勉強を始めようとする。
(無理に強がってみせているが、琴音も琴音なりに、この狂った日常の気味悪さに必死で耐えようとしているんだな)
多朗は、教科書を開く彼女の強情な背中を、どこか切ない気持ちで見つめることしかできなかった。
『でもね、琴音さん。もしその未知の細菌の弱点が、日本人に馴染み深い特定の食べ物だったとしたら、面白いと思わないかしら。例えば、他の菌を圧倒して死滅させる、あの強力な納豆菌とかね』
相羽が少し離れた前の席の琴音に向けて不敵に微笑みながら、突如として多朗の顔をじっと凝視した。
『あ、そういえば』
前の席から、琴音がハッとしたように声をあげ、振り返って多朗の顔を指差した。
『あんた、放課後や夕食によく行くさわやの店でも、家での朝ご飯でも、毎日欠かさず納豆を大量に食べてるわよね! それも、信じられないくらい大盛りのやつを!』
『えっ、マジかよ多朗! お前、毎朝毎晩そんなに納豆を大量摂取してるのか!』
剛田が信じられないものを見るような目で、多朗の肩をガシガシと強く叩いた。
『ゲッ、なんで琴音がそれを今ここで言うんだよ! 大きな声で暴露するなよ!』
多朗が一瞬で顔を真っ赤にするのを感じ、慌てて前の席の琴音を振り返って口を手で押さえようとした。一年A組の他の奴らの視線が、一斉にこちらを向くのが分かったからだ。多朗の個人的な偏愛食生活がクラス中に暴露された瞬間の恥ずかしさで、耳の後ろまで一気に熱くなる。
『ふふ、上宮くんの大腸が納豆菌で守られているのなら、素晴らしいことです』
隣の席のマナが、静かに微笑みながら言葉を添えた。
『なるほどね。じゃあ上宮くんの腸内環境は、その納豆菌の恩恵で、この学級で一番最強ってことになるわね。脳のストレス耐性も、無自覚なうちに最大値に達しているのかもしれないわ。だからこそ、あの過酷な地下室での出来事の後でも、上宮くんだけは精神の乱れが少ないのかしら』
相羽が活動的な笑みを浮かべながら、そんな真面目な顔で鋭い分析を披露する。あの空間の異常を察知できる彼女にそんな真顔で分析されると、冗談には全く聞こえなくなってくるから困りものであった。
『からかうなよ、相羽まで』
多朗は赤面したまま頭を激しく掻きむしった。剛田がそれを見て、また大声でゲラゲラと笑い始める。
さらに教室の斜め後ろの席では、四條蓮が眼鏡の位置を指先で直しながら、手帳に何かを冷酷に細かく書き込んでいるのが見えた。あいつもまた、多朗の反応をデータとして観察しているに違いなかった。
やがて予鈴の甲高チャイムが響き渡り、多朗は自分の席で深く息を吐き出した。
九州の奇妙な風邪の噂、そして腸内細菌による選別の裏基準。
いつもと変わらない、騒がしくてくだらない日常の風景。だけど、その皮を一枚めくれば、底知れない不気味な闇が大きな口を開けて待っている。多朗は自分の右手の痺れを必死に隠しながら、これから訪れるであろう世界の激変の足音に、ただ一人で冷や汗を流し続けることしかできなかった。




