朝霞の夜道と忍び寄る足音
成増駅のホームに滑り込んできた東武東上線の各駅停車に乗り込むと、車内は家路を急ぐ通勤客や学生たちで適度に混み合っていた。吊り革に掴まりながら、多朗はガタゴトと規則正しく揺れる電車の窓ガラスに目を向けた。黒く透けたガラスには、疲労と不安で冴えない自分の顔と、無心でスマホの画面を見つめ続ける乗客たちの姿が虚ろに映り込んでいる。
すぐ横に立つ琴音は、制服のカバンの紐を強く握りしめたまま、じっと自分の足元を見つめて固く口を閉ざしていた。
(同じ場所で同じ空を見ていたのに、俺には液晶画面の明滅に見えて、琴音にはガラスの割れ目に見えていた。世界の解像度がズレているのか、それとも俺たちの脳が別々のデータを見せられているのか。周囲の乗客たちがそんな狂った異常に一切気づいていないのが、たまらなく不気味だぞ)
多朗は胸の内で重く呟いた。今朝の教室で、剛田の全身の不自然な怪我や地下室での激しい戦闘の記憶が綺麗に上書きされていたあの光景。もしかしたら、この電車に乗っている普通の人々も、自分たちが気づかないうちに記憶や認識を何度も都合よく書き換えられているのではないか。そんなヘタレ特有の不吉で嫌な思考が頭をもたげ、背筋に冷たい汗が伝っていった。
電車が和光市駅を過ぎ、目的地の朝霞駅へと到着した。
『多朗、私、駅前のスーパーで夕飯の材料を買ってから帰るわ。お母さんに頼まれてたの、すっかり忘れてたのよ』
改札を出たところで、琴音が出口の脇にあるスーパーの明るい看板を指差しながら言った。
『あ、そうなのか。じゃあ、今日はここで別れるか』
『うん。気をつけて帰りなさいよ。明日、ちゃんと学校で会いましょうね』
琴音は少しだけ無理に作ったような小さな笑顔を見せると、スーパーの自動ドアの向こうへと早足で消えていった。
一人になった多朗は、賑やかな駅前のロータリーを抜けて、静かな住宅街へと足を向けた。
朝霞の夜道は、駅前から少し離れると一気に人通りが引き、古い民家やマンションの明かりがぽつぽつと漏れるだけの深い暗闇に包まれる。建物の隙間を吹き抜ける四月の冷たい夜風が、薄い制服の生地を通して多朗の皮膚を鋭く刺した。いつもなら琴音とくだらない口喧嘩をしながら歩く見慣れた帰り道だが、たった一人で歩く夜道は異様なほど遠く、そして恐ろしく暗く感じられた。
街灯のオレンジ色の光が届かない、古い民家のブロック塀の角を曲がった、その時だった。
背後で、かすかな足音が聞こえた気がした。
ザッ、という、乾いたアスファルトを薄い靴底で摩擦するような微小な音だ。
多朗の心臓がどきりと嫌な音を立てて跳ね上がった。歩く速度を少しだけ上げて、全神経を背後へと集中させる。
(気のせいだ。ただの通りすがりの近所の人に決まっている。落ち着け俺。自意識過剰になるな)
多朗は必死に自分に言い聞かせた。しかし、多朗が歩みを早めると、背後の気配も完全に同調して速度を上げてきた。衣類が擦れるかすかな音と、規則正しい足音が、確実に背後から距離を詰めてきている。
誰かが後ろから自分を追ってきている。それも、明らかな意図と殺気を持って多朗を追っているのだ。
恐怖が一気に首筋から脳髄へと駆け上がった。夕方の川越街道で四條蓮が言い残した、あの冷淡な忠告が耳の奥で激しく反響する。
『お天道さまの網の目を潜り抜けようとする不純物は、往々にして世界の仕組みによって排除されるからな』
(まさか、あの技術室で鳴海先輩に言われるがままに怪しい立体回路を作っちまったからか。後藤教官たちの手先が、俺を世界の不純物として処理しに来たのか)
昼間に見した後藤教官の竹刀を振り下ろす冷酷な表情や、深紅の瞳を発光させた榊先輩の異形が脳裏をよぎり、呼吸が浅く激しくなっていく。多朗は振り返る勇気すら出ないまま、さらに足を強張らせて早歩きになった。
後ろの足音も、容赦なく速度を上げて追ってくる。ザッ、ザッ、と暗闇を切り裂く足音が、じわじわと多朗の背中に迫る。住宅街の静寂が、かえってその正体不明の追跡者の威圧感を何倍にも増幅させていた。
その時、あのはんだ付けの最中に右手が覚えた、あのピリピリとした怪しい痺れと熱量が、再び右手のひらの奥で激しく脈打ち始めた。
(ダメだ。これ以上普通に歩いていたら、絶対に追いつかれる。捕まったら何をされるかわからないぞ)
『うわあああ』
多朗は情けない悲鳴を夜空に撒き散らしながら、全速力で夜道を走り出した。
背負ったカバンが背中で激しく暴れ、制服のボタンが千切れ飛びそうになるのも構わず、ただひたすらに前だけを見て両足を激しく動かした。暗い角を何度も強引に曲がり、民家の壁に衝突しそうになりながら、静かな朝霞の住宅街を狂ったように駆け抜ける。
背後を振り返る余裕など一切なかった。本当に人間が追いかけてきているのか、それとも自分の恐怖が生み出した幻聴なのかすら分からない。ただ、この日常の裏側に潜む得体の知れない巨大な悪意から、一刻も早く逃げ出したかった。
前方に、見慣れた我が家の玄関の温かい明かりが見えてきた。
『はあ、はあ、助けてくれ』
多朗はもつれる両足を必死に前に出し、敷地の低い門扉を飛び越えるようにして玄関へと滑り込んだ。
ガチャリと重い鍵をかけ、上のチェーンもしっかりと掛け金に嵌める。
背中を玄関扉に預けたまま、多朗はその場に激しくへたり込んだ。心臓が肋骨を内側から突き破らんばかりに猛烈に脈打ち、喉の奥からヒューヒューと荒い喘鳴が漏れ出す。
(助かった、のか。追いつかれなかったのか)
玄関電球の柔らかい光が、ここが安全な現実の世界であることを静かに告げていた。しかし、ポケットの中から取り出したスマホの液晶画面を見ると、その画面の隅で、やはり見たこともない奇妙な波紋のような光の乱れがチカチカと走んでは消えていた。
そして、多朗の右手のひらは、まだ冷たい痺れと怪しい熱量を失っていなかった。
成増航空高校を中心に広がる異常な日常の侵食が、この静かな朝霞の自宅にまで、確実に迫ってきている。その目に見えない巨大な恐怖の足音に、多朗はただ自分の両膝を抱えて、暗い玄関の床で小さく震え続けることしかできなかった。




