歪む西日と監視者の告発
技術室の重い鉄扉が、背後でガシャンと不吉で激しい音を立てて閉まった。
琴音に手首を強く掴まれたまま、多朗は薄暗い廊下を半ば引きずられるようにして歩いていた。放課後の静まり返った校舎には、二人のバタバタとした足音だけが不気味に響き渡っている。窓から差し込む西日は、血のように赤い光を廊下の床に落としており、引き延ばされた二人の影が異質な怪物のように黒く歪んでいた。
『ちょっと、琴音、痛いって。そんなに焦って走らなくても、鳴海先輩は追いかけてこないよ』
引っ張られる手首の痛みに耐えかねて多朗が声をかけると、琴音はピタリと足を止めた。
振り返った彼女の顔は、夕日に赤く照らされているはずなのに、血の気が完全に引いて真っ白に見えた。
『追いかけてこないなんて、どうして言い切れるのよ! あの先輩の目を見たでしょ! まるで珍しい実験動物でも見つけたみたいにギラギラしてて、本当に気味が悪かったわ! それにあの同じクラスの九条って女子も何なのよ! オテントサマがどうとか、電波すぎて意味がわからないわよ!』
『それは、まあ、あの二人はジャンククラフト部だし、いつもあんな感じだけどさ』
『いつもで済むわけないでしょ! 今日の多朗、絶対におかしいもん! あんた、さっき自分の手が勝手に動いたって言ったわよね。あれ、本気で言ってるの!』
琴音の鋭い視線が、多朗の右手に一直線に突き刺さった。
多朗は自分の右手のひらをゆっくりと広げて見つめた。指先はまだ細かく震えており、皮膚の深い奥でピリピリとしびれるような怪しい感覚が強く残っている。あのはんだ付けの最中、脳裏を埋め尽くしたはずの謎の数式や立体図面は、思い出そうとしても霧のように霞んで掴めない。ただ、あの高次元の技術を扱った異質な全能感の残滓だけが、消えない熱となって右手に纏わりついていた。
(嘘なんかじゃないぞ。止めようとしても手が勝手に動いて、頭の中に見たこともない数式や立体回路が次々と浮かんできたんだ。あの熱は、まだ俺の右手の奥で燻っているんだ)
多朗は激しい恐怖を押し殺しながら、胸の内で重く呟いた。
『本気だよ。嘘なんてついてどうするんだ。俺だって、あんな爆速で回路を組めるなんて思わなかった。まるで、最初からやり方を知っていたみたいに、指先が勝手に動いたんだよ』
『そんなの、普通の高校生じゃないじゃない! 多朗、あんた一体どうしちゃったのよ!』
琴音の声が激しく震え、多朗の制服の胸ぐらを両手で強く掴んできた。
『朝の剛田のこともそうよ! みんな、あの地獄みたいな地下室の授業で後藤教官に怪我をさせられたはずなのに、何事もなかったみたいに笑ってた! 私たちが変なの! それとも、世界の方が狂っちゃったの! ねえ、多朗、何か言ってよ!』
琴音の激しい呼吸と鼓動が、胸元を通じて直接伝わってくる。彼女は、多朗が自分の知らない遠い世界へ行ってしまうことを、本能的に激しく拒絶していた。その強い執着と嫉妬の混ざった瞳が、今の多朗には痛々しくもあり、同時に少しだけ息苦しかった。
『わからない。俺だって、何が起きているのかさっぱりわからないんだ。ただ、昨日見たいくつかの不具合、あの液晶画面みたいにチカチカ明滅していた不気味な空が、どうしても幻覚だとは思えなくて』
『え、チカチカ明滅。あんたにはそう見えたわけ』
琴音は多朗の胸ぐらを掴んだまま、大きな瞳をごろりと見開いた。
『私は、空がガラスみたいにバキバキに割れたように見えたって朝話したわよね! ニュースもネットも静かなままだから、私たちが同時に頭がおかしくなったのかと思ってたの! でも、あんたには別の見え方をしてたのね! 同じ場所で同じ空を見ていたはずなのに、なんで見え方がズレてるのよ! それ、余計に気味が悪いじゃない!』
琴音の言葉に、多朗は背筋が激しく凍りつくのを感じた。二人とも空の異常を目撃していた。しかし、その見え方が致命的に食い違っている。まるで、別々の歪んだ映像を無理やり脳内に見せられているかのような不気味さが、じわじわと脳髄に染み込んでくる。
(見え方が違うなんて、一体どういうことなんだ。俺と琴音で見ている世界の解像度がズレているとでもいうのか。だけど、日常が狂い始めていることだけは間違いなさそうだ)
『見え方が違うなんて、確かにわけがわからないな。でも、幻覚じゃないことだけは確かだ』
『そんなの何の気休めにもならないわよ! もういいわ、とにかく今日はもう帰る! 川越街道に出て、いつもの道を歩いて帰るの! そうすれば、明日には全部元通りになっているはずよ!』
自分に言い聞かせるような琴音の強い言葉に、多朗はただ黙って頷くことしかできなかった。
下駄箱で靴を履き替え、二人は成増航空高校の校門をくぐった。
校舎を一歩出ると、四月の外気は驚くほど冷え切っていた。川越街道沿いに並ぶ街灯が、ぽつぽつとオレンジ色の光を灯し始めている。行き交う車のヘッドライトが、夕闇の迫る道路を白く照らし出していた。
しかし、その光景すらも、どこか現実味を欠いていた。走っている車のエンジン音が、妙に遠くの空間で響いているように感じられるのだ。まるで、薄い膜を一枚隔てた向こう側の世界を見ているかのような、奇妙な違和感が拭えなかった。
『上宮、それに琴音も、ずいぶんと遅い下校だな』
不意に、街路樹の濃い影から男の低い声が響いた。
心臓が跳ね上がるのを感じながら視線を向けると、そこには同じクラスの四條蓮が立っていた。彼はいつものように、感情の読めない冷徹なロジックを身に纏った佇まいで、古い電柱に背を預けていた。眼鏡の奥の切れ上がった瞳が、値判するように二人を静かに捉える。
『四條。お前、何でこんなところにいるんだよ』
多朗は警戒して、琴音を背後に隠すように一歩前に出た。
『ただの定点観測だよ。今朝、お前が教室で見せたあの怯え方、実に参考になったよ。だから放課後にどこへ行くのか見ていたら、技術室だったというわけだ。お前たちの行動、すべて俺の予測通りだよ』
四條はポケットから小さな手帳を取り出し、細いペンで何かを素早く書き込みながら淡々と言った。
『あの技術室の周辺で、一時的に見たこともない未知の電磁波の乱れが観測されてさ。お前たちが中に籠もっていた時間と、完全に一致しているんだよ』
『何のことだよ。俺はただ、壊れた基板の修理を手伝わされていたくだけだ』
『とぼけても無駄だ、上宮。お前、普段はヘタレのフリをしているが、あの電磁波の異常な数値は何なんだ。俺、そういう記録の不自然さには目がなくてさ。今朝の剛田の記憶がおかしいって気づいていたのも、クラスでお前ら二人だけだったろ』
四條の言葉に、琴音が背後から鋭く反応した。
『四條くん、あんたやっぱり知ってるの! 剛田の記憶がおかしくなっていることも、この学校の先生たちが何かを隠していることも!』
『さあね。俺はただの観察者だ。世界の多重な時間の連なりが交差する瞬間を、ただ記録する義務があるだけだよ』
四條は冷たく口元を歪め、手帳を制服のポケットにしまい込んだ。
『だが、一つだけ忠告しておく。技術室で発生したあの不気味な波形は、この成増の街を管理している統制層、つまり後藤教官たちにとって、極めて不都合な代物になる可能性がある。お天道さまの網の目を潜り抜けようとする不純物は、往々にして世界の仕組みによって排除されるからな』
『仕組みって、何なんだよ! 後藤教官たちは俺たちに何をしようとしてるんだ!』
多朗が強く問い詰めるが、四條はそれ以上答えようとはしなかった。
『自分の身は自分で守ることだ、上宮多朗。お前の周辺の数値が、次の選択を迫られる日は近い』
四條はそれだけ言い残すと、夕闇に溶け込むようにして川越街道の雑踏へと静かに消えていった。
『なんなのよ、あいつ! わけのわからないことばかり言って!』
琴音が悔しそうに足を踏み鳴らす。だが、その肩は小さく震えていた。四條の言葉が、自分たちの直面している異常が本物であることを決定的に裏付けてしまったからだ。
『行こう、琴音。ここにいても始まらない』
二人は再び歩き出した。川越街道から折れて、成増駅の南口へと続く商店街の通りに入る。
夕飯の買い出しをする主婦や、仕事帰りの会社員たちが行き交う、いつも通りの日常の風景がそこには広がっていた。惣菜屋から漂う揚げ物の匂いや、赤提灯の明かりが生々しく五感を刺激する。
だけど、その雑踏すらも、今の多朗にはどこか作り物めいて見えた。すれ違う人々の笑顔や足取りが、あらかじめ決められたプログラムをただなぞっているだけの人形のように思えてくるのだ。
『ねえ、多朗』
駅の改札へと続く階段の手前で、琴音が不意に足を止め、多朗の制服の袖を弱々しく引いた。
『何だよ、琴音』
『私、明日学校に行くのが、すごく怖い』
琴音はうつむいたまま、絞り出すような小さな声で言った。彼女の指先が、多朗の袖をぎゅっと強く握りしめる。
『後藤教官の顔を見るのも、記憶を無くした剛田を見るのも、全部耐えられないの。もし、明日目が覚めた時、私の記憶まで書き換えられていたらどうしよう。多朗のことも、全部忘れちゃってたら』
『そんなわけないだろ。俺がちゃんとお前のことを覚えてるよ』
ヘタレな多朗にしては、珍しく強い口調だった。自分自身を安心させるための言葉でもあった。
琴音は小さく息を吐き出し、それからゆっくりと視線を上げた。
『うん。多朗がそう言うなら、ちょっとだけ信じるわ』
琴音は小さく微笑んだ。だが、その瞳の奥の焦燥は消えていない。
『じゃあ、帰りましょう』
二人は寄り添うようにして自動改札機に定期券をタッチした。ピッという電子音が響き、金属の扉が開く。二人はそのまま、朝霞方面行きの電車が待つホームへと続く階段をゆっくりと上っていった。




