神がかった右手と未知の立体回路
放課後の特別棟最上階にある技術室には、気化したハンダの焦げ臭いヤニの匂いが不気味に満ちていた。斜めに差し込む四月の赤い西日の光の中で、多朗の右手は信じられない速度で激しく蠢き始めていた。
金属製のピンセットとはんだごてを握りしめる指先が、まるで自分とは全く異なる高度な意志によって制御されているかのように滑らかに動く。緑色の電子基板の上へ、ジャンクパーツの山から選ばれた無数の微小な部品が、吸い込まれるように正確に収まっていく。その一連の極限的な動作には、一切の迷いも、息を整える隙すらも存在しなかった。
『ちょっと多朗、何それ! 動きが気持ち悪すぎるんだけど!』
すぐ隣で、琴音が引きつった声を上げた。多朗の制服の袖を掴もうと伸ばした手が、指先の異常な運動速度と激しい熱量に恐怖を感じたのか、慌てて空中で引っ込められた。
(止めたいのに止められないぞ! 俺の意思と関係なく右手が勝手に動いているんだ! 頭の中に見たこともない幾何学模様や数式が次々と浮かんできて、手が勝手にそれを組み立てているんだ!)
多朗は額に大量の冷や汗を浮かせながら、心の中で悲鳴を上げた。
『冗談言わないでよ! あんた、はんだ付けなんてまともにやったこともないくせに! まるで別の何かが乗り移ったみたいで、すごく嫌よ!』
琴音の大きな瞳が、激しい不安と怒りで揺れていた。彼女にとっての多朗は、いつだって自分の後ろを情けなくついてくるヘタレな幼馴染でなければならなかったのだ。それが今、自分の全く知らない異次元の領域へ猛烈な速度で突き進んでいる。その事実が、彼女の胸の奥にある強い独占欲と恐怖に火をつけているのが痛いほど伝わってきた。
『静かにしなさい、外野。上宮くんの集中を乱すんじゃないわ』
技術室の奥から、低く鋭い声が飛んできた。
ジャンク部品がうずたかく積まれた作業台の向こう側で、白衣を羽織った鳴海先輩が、眼鏡の奥の美眸をぎらぎらと不気味に光らせていた。普段は他人に一切の興味を示さない冷酷な科学者が、今は未知の実験動物を見るかのような狂気的な興奮を隠そうともしていなかった。ゆっくりと、多朗の手元へ向かって距離を詰めてくる。
『素晴らしいわ、上宮くん。あなたが見せている回路の再構築は、既存の三次元幾何学を完全に無視しているわ。普通なら信号が内部で衝突して使い物にならなくなる配線が、立体的な超次元の隙間をすり抜けて完璧に接続されている。その設計図、一体どこで手に入れたのかしら』
『知りませんよ! 俺はただ、鳴海先輩に渡された壊れた基板を直そうとしただけです! 頭の中に変な幾何学模様が浮かんで、勝手に手が動いているだけで!』
『嘘をおっしゃい。そんな言い訳が通用する次元の技術ではないわ。まるで、未来の技術体系や高次元の構造がそのまま脳内に流し込まれたかのようだわ。あなた、本当に上宮多朗という人間なのかしら』
鳴海先輩の白く細い指が、多朗の作業台の端を強く掴んだ。その美しい顔は、恐怖よりも底知れない知的好奇心によって完全に支配されていた。
『やめてよ、先輩! 多朗をこれ以上追い詰めないで!』
琴音が多朗の前に割り込むように立ちふさがった。鳴海先輩を激しく睨みつけながら、多朗の肩を抱きしめるように強く固定する。
『今日の多朗は、朝からずっとおかしいのよ! 剛田だってそうなの! 昨日の地獄みたいな地下室の争いで傷だらけだったはずなのに、今朝になったら綺麗な肌になってて、自分が巻き込まれた記憶すら消えてたんだから! この学校、絶対に何かが変なのよ! 後藤教官も他の先生たちもみんな狂ってるのよ!』
琴音の悲鳴のような叫びが、技術室の冷たい空気に重く吸い込まれていった。
『記憶の改変、および情報の補正か』
鳴海先輩は顎に手を当て、冷ややかな声で呟いた。
『やはり選別と環境の最適化が本格化しているというわけね。あの地下特別室で行われている処置が、徐々に学校全体へと影響を及ぼし始めている。後藤教官だけでなく、稲葉先生や石田教頭もその統制層にいるのは間違いないわ』
『選別って何なんだよ! 後藤教官たちが地下室で何を企んでるんだ! 剛田の記憶がおかしくなったのも、その選別に関係があるのか!』
多朗ははんだごてを動かし続けながら、絞り出すように声を上げた。脳の処理能力の大半を右手の超演算に持っていかれているせいで、言葉を発するだけでも意識が白く跳びそうになる。
『そんなことは自分の頭で考えなさい。だが、あなたが今展開しているその演算能力は、物質的な人間の脳の限界を遙かに超えているわ。まるで、ハプロ遺伝子の奥底に刻まれた古の記憶が呼び覚まされたかのようにね』
『先輩、もういい加減にして! 多朗が苦しんでいるのが見えないの! そんなわけのわからない話、どうでもいいから、今は多朗を休ませてよ!』
琴音の声には、焦燥感だけでなく、多朗が自分の手の届かない遠い場所へ行ってしまうことに対する猛烈な拒絶が混ざっていた。
『あはは、オテントサマが見てるよ』
その時、技術室の隅にある工具棚の陰から、場違いに明るい声が響いた。
体育座りをして天井を見つめていた九条が、くすくすと可愛らしく笑いながらこちらに顔を向けた。彼女の焦点の合わない透き通った瞳は、技術室の天井を通り越し、はるか上空の宇宙空間に存在する何かを凝視しているようであった。
『オテントサマが、上から大きな網の目を絞っているの。多朗くんの手は、その網の目をすり抜けるための特別な鍵を作っているんだね。でも、あんまり綻びを大きくしちゃダメだよ。管理している怖い人たちに見つかっちゃうから』
『ちょっと九条さん! さっきからわけのわからないことばかり言わないでよ!』
琴音が声を荒らげる。
『多朗はただ、体調が悪いだけよ! 成増航空高校の異常な授業のせいで頭が混乱しているだけなの! ねえ、多朗、もうこんな部活やめて帰ろう! 川越街道の角にあるお店でいつものお菓子でも買ってさ、普通の高校生に戻ろうよ!』
『琴音、俺もそうしたいんだけど、本当に手が離れないんだ! 頭の中の雑音が、この回路を完成させろって叫んでるみたいで!』
普通の高校生。琴音が必死にすがりつこうとしている平穏な日常の記号。
しかし、多朗の頭の中に次々と流れ込んでくる無数の高次元数式と立体図面は、その日常がすでに足元から脆く崩れ去っていることを残酷に告げていた。昨日見た、壊れた液晶画面のように明滅していた不気味な空。あの光景は決して幻覚などではないのだ。
カチリ、と小さな金属音が静かな技術室に響き渡った。
と同時に、多朗の右手の猛烈な駆動がピタリと停止した。
『終わった、のか』
多朗の口から掠れた声が漏れた。全身から一気に冷や汗が吹き出し、立っていられないほどの激しい虚脱感が全身を襲う。視界の端に張り付いていた不気味な格子状の数式模様が、霧が晴れるように消えていった。
作業台の上には、鳴海先輩から渡されたジャンク部品とは全く異なる、不気味で美しい曲線を帯びた未知の立体回路装置が完成していた。中心にある小さな高純度の結晶体が、夕闇の中で怪しく青白く明滅している。
『これが、あなたの演算が出した結果なのね』
鳴海先輩が、歓喜に震える手でその装置を手に取った。
『信じられないわ。これほどの高密度な立体回路、現在の地球上の科学では製造不可能なはずよ。これがあれば、あの地下特別室の奥にある、開かずの重鉄隔壁の周波数に直接干渉できるかもしれないわ』
『そんな恐ろしいもの、どこにも繋がなくていいから! 多朗、帰るわよ!』
琴音が多朗の手を強引に引っ張った。その指先の激しい震えが、彼女の恐怖の深さを物語っていた。
多朗は自分の真っ赤に充血した右手を見つめながら、これから巻き込まれるであろう底知れない巨大な事態の予感に、奥歯をガチガチと鳴らすことしかできなかった。窓の外では、血のように赤い四月の夕焼けが、成増の街並みを静かに侵食していた




