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都立 成増航空高等学校  作者: 秋津ネオ


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19/81

消された記憶とジャンクの予言

 朝の柔らかい光が斜めに差し込む川越街道沿いの歩道は、昨日の夕方に目撃したあの悍ましい空間の歪みが嘘のように、穏やかな通学路の日常を取り戻していた。


 多朗は、通学カバンの紐を強く握りしめながら、何度も右手の掌を開いたり閉じたりしていた。


 地下の特別室で響き渡った後藤教官の冷酷な怒号や、蛍光紫色の丸薬を噛み砕いた榊先輩の赤く発光した瞳。そして中庭から見上げた、壊れた液晶画面のように激しくチカチカと明滅していた狂った空の亀裂。それらの異様な記憶が、一晩経っても脳裏で鋭い針となって刺さったままであった。


(昨日のあれは絶対に夢なんかじゃないぞ。だけど一晩明けても、テレビのニュースもネットのニュースも普通のことしか流していないんだ。世界そのものが、昨日のバグを強引に隠蔽したみたいに静かすぎるんだ)


 多朗は一人で胸の内で呟きながら、薄暗い恐怖を必死に押し殺していた。


『ちょっと多朗、歩くのが遅いわよ。置いていっちゃうからね』


 すぐ前を歩いていた琴音が、振り向いて不機嫌そうに声を尖らせた。しかし、彼女の細い指先が制服のスカートの裾を不自然なほど強く掴んでいるのを多朗は見逃さなかった。琴音もまた、昨日の恐怖を必死に押し殺して虚勢を張っているのだ。


『あ、ごめん。琴音、その、昨日のこと、少しは眠れたか』


 多朗が周囲の登校風景を気にしながら低い声で尋ねると、琴音は一瞬だけ視線を泳がせ、それから頑なに顔を背けた。


『眠れるわけないじゃない! あんな化け物みたいな先輩たちを見て、空が画面みたいに割れたのよ! でも今朝起きたら、ネットでも誰も何も騒いでないの。なんなのよこれ、私たちが集団で頭でもおかしくなったっていうの』


『やっぱり、新設校の特殊な訓練の演出だったのかな』


 多朗は持ち前のヘタレさを発揮して現実逃避の言葉を口にした。戦うことも、世界の異常に巻き込まれることも、本来の彼は何より嫌っているのだ。ただ平穏な日常の殻に閉じこもっていたいだけであった。しかし、自分の右手の奥が時折ピリピリと熱を持つ奇妙な感覚だけは消せなかった。


 教室に入ると、そこにはいつもと変わらない昭和のガサツな熱気が満ちていた。男子生徒たちの騒がしい笑い声と、机を引きずる高い音が響いている。


『よぉ、多朗、顔色が悪いぞ。やっぱりさわやのから揚げ特盛を食わないからだ』


 剛田が自分の太い腹をがははと叩いて笑いかけてきた。昨日の地下室で不可視の肉体防壁を展開し、吹き飛ぶ鉄扉の破片を弾き飛ばした男とはとても思えない呑気さであった。


『剛田、お前、足や体の怪我はもう大丈夫なのかよ』


『あ? 足の筋肉痛か? 湿布を貼りまくったからもう平気だぞ。それにしても昨日は参ったな。地下の立ち入り禁止エリアに迷い込んで、後藤の鬼教官に見つかって大目玉を喰らったからな。不法侵入で説教されただけで済んで儲けものだったよ』


 剛田の言葉に、多朗は思わず絶句した。


(なんだって。剛田の記憶がすり替わってるぞ。あの紫色の丸薬も、榊先輩の深紅の瞳も、肉体防壁で吹き飛んだ鉄扉を防いだことも、全部綺麗に消え去ってただの説教に上書きされてるんだ。この学校、本当に恐ろしいことが起きているぞ)


 あまりの恐怖に喉が張り付き、多朗はただ青ざめて固まることしかできなかった。剛田が何事もなかったかのように自分の席へと戻っていく後ろ姿を、多朗は呆然と見つめるしかなかった。


『上宮』


 斜め後ろの席から低い声がした。データ観察者である四條蓮が、冷めた目でシャープペンシルをスマートに回しながら多朗を見つめていた。


『お前、今朝からずっと挙動がおかしいぞ。完全に目が泳いでいる』


『え、四條』


『剛田のツラを見て何怯えているんだよ。単に教官に怒鳴られただけなら青ざめるわけがない。昨日の数学の授業からお前は見ているぞ。後藤教官が黒板に書く前に、ノートで勝手に答えを弾き出していただろ。あの異常な計算スピードと、今朝の警戒する視線だ』


 四條は周囲に聞こえないよう低く声を潜めた。


『お前、昨日あの地下室で、剛田には見えていない何かを見たな。あるいは、昨日の夕方に起きた、あの空の不具合について何か知っているのか』


『空の不具合』


 多朗の指先がピクリと跳ねた。その反応を見た四條は口元をわずかに歪めた。


『やっぱり気づいていたか。昨日、西の空の一部が液晶画面の壊れたドットみたいに激しくチカチカしていたんだよ。だけど今朝のニュースでもネットでもどこにも載っていない。世界そのものが何かを隠そうとしているみたいにな。上宮、お前のその右手と昨日の地下室には、一体何があるんだ』


 四條が冷徹に多朗を追い詰めようとした瞬間、教室の扉が勢いよく開いた。


『皆さん、おはようございます』


 いつも通りの天然な微笑みを浮かべて入ってきたのは、少し遅れて入ってきたマナであった。どこか浮世離れした神秘さを纏うマナは、一直線に多朗の席へと歩み寄り、上目遣いに覗き込んできた。


『今日も多朗くんと同じ教室にいられて、私はとっても嬉しいです』


『あ、おはよう、マナ』


『ちょっとマナ! あなた、昨日の今日でなんでそんなに平気な顔ができるわけ! 昨日のあの異常な空、あんたの家の方では何ともなかったの!』


 琴音が激しい対抗心を瞳に宿してマナを問い詰めたが、マナは大きな瞳をパチパチとさせるだけであった。


『お家では、一緒に住んでいる皆さんと、美味しいご飯を食べましたよ。昨日の夕焼けは、とっても赤くて綺麗でしたね』


 その言葉の裏にある、世界の崩壊を知る者特有の、どこか切なく妙に落ち着いた視線。多朗はマナのその静かな眼差しに胸を突かれ、何も言えなくなってしまった。


 放課後。多朗は、先日ジャンククラフト部で鳴海先輩から譲り受けた、あの三次元トポロジーを完全に無視して組まれた謎の電子基板をカバンから取り出した。昨日目撃した地下室の異常や、液晶のように明滅していた空の不具合。それらの超常的な謎を解く手がかりが、常識外れの技術を持つ鳴海先輩や、世界の歪みを予言していた九条にあるのではないか。そう考えた多朗は、足の重い琴音を引き連れて、再び特別棟の最上階にある技術室の扉を叩いた。


 ガラガラと引き戸を開けると、室内には油とハンダ付けのヤニの焦げ臭い匂いが漂っていた。部屋の隅、工具棚の隙間に置かれた古い丸椅子の上で、小柄な九条が体育座りををしたままじっと天井の一点を見つめていた。


『あ、多朗が来た。タイムラインの糸が、昨日よりも細くなって、トゲトゲしてる。お天道さまが、未来で泣きそうな顔をしてる』


『九条さん、また不吉なことを。相変わらずこの部屋は怪しい電波が飛び交っているわね』


 琴音が腕をさすりながら不満げに愚痴をこぼした。


『ふふ、よく来たわね、多朗くん。私の優秀なお手伝いロボット候補が、また自ら首輪を嵌められにやってくるなんて、可愛いところがあるじゃない』


 パーテーションの中から音もなく現れたのは、白衣を気だるげに羽織った黒髪の美人、鳴海先輩であった。その美しい目は全く笑っておらず、底知れない冷徹な科学者の雰囲気を全身から放っている。


『先輩、からかわないでください。俺は、昨日街で見たいくつかの不具合について、先輩なら何かわかるんじゃないかと思って』


 多朗が手の中の謎の基板を見せると、鳴海先輩の瞳が怪しく細められた。


『あら、その基板の真価に、あなたの凡庸な脳がようやく気付いたかしら。いいわよ、知りたいことがあるなら教えてあげてもいいわ。ただし、私の突きつける無理難題を、その右手で解決してみせなさい』


 鳴海先輩は作業台の上にある、見たこともない奇妙な測定器のようなジャンクパーツの山を指差した。


『この測定器の回路を、熱伝導の効率を完全に無視した超次元の配置で再構築すること。それができたら、昨日の空の明滅に関する、私の個人的な観測データを開示してあげるわ』


『そんなの、普通の高校生にできるわけないじゃないですか』


 多朗がヘタレて抗議すると、琴音に背中を強く小突かれた。


『何言ってるのよ多朗! ここで負けたら本当にこの女のパシリにされるのよ! あんたのあの勝手に動く右手で、さっさとゴミの山から何か作ってみせなさいよ!』


『簡単に言うなよ、琴音』


 多朗はため息をつきながらも、作業台に向かい、熱を持ったハンダゴテを強く握りしめた。


 工具棚の隅で、九条が地面に染み込むような声でぼそりと呟いた。


『大丈夫。多朗の右手は、お天道さまの導きを知っているから。でも急がないと、英語の稲葉先生や石田教頭が召集令状を持ってきちゃう。みんなで戦闘機に乗って、ドローン小隊を率いて空を飛ぶ日がそこまで来ているの』


 九条のその奇妙な言葉の意味を、多朗たちが正確に理解できるはずもなかった。


『ちょっと九条さん、だから召集令状って何よ! 稲葉先生も石田教頭も、普通の先生じゃないの!』


 琴音が呆れたように叫ぶが、九条はもうそれ以上は語らず、再び天井を見つめるだけの静かな状態に戻ってしまった。


 多朗は手の中のハンダゴテを握り直した。九条の言葉はいつも通り意味不明の電波にしか聞こえない。それなのに、なぜか胸の奥に冷たい棘が突き刺さるような、妙な胸騒ぎが消えなかった。成増航空高校という歪な学園の日常が、自分たちの知らないところで確実に軋みを上げていることだけは分かった。


(やるしかない。ここで失敗したら、本当にこの目の笑っていない美人のパシリ確定だぞ)


 多朗は小さく息を吐き、右手の力を抜いた。その瞬間、皮膚の裏側で燻っていたピリピリとした熱が、一気に指先へと流れ込んでいくのを感じた。作業台へ向かう多朗の右手が、自分自身の意志を離れて熱く蠢き始めていた。 

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