月から成増まで、たった三秒で帰るから待ってろ!
月の裏側、地下三千メートルに広がる白銀の祭壇が、激しい光の脈動に包まれていた。
中枢母機【零二】の装甲表面に浮かび上がった幾何学文様が、淡い青白さから眩い黄金色へと変貌していく。新しく生まれ変わった心臓部、月読炉心が唸りを上げ、周囲の空間そのものを微細に震わせていた。
操縦席の主座に深く身を沈めた上宮多朗は、神経接続された機体から流れ込んでくる膨大な情報の奔流に息を呑んだ。マリアナの底で味わったあの凍りつくような無力感は、もうどこにもない。機体の隅々にまで温かい血潮が巡るような、圧倒的な全能感が満ちていた。
「出力、従来の十二倍を突破。まだ上がります。空間歪曲率、臨界点へ到達」
後方の演算防壁席で、陣内竜太郎が眼鏡の奥の瞳を細め、高速で流れる数値を指先で弾いた。普段は冷静沈着な彼の声に、隠しきれない興奮が混じっている。
「これなら母船の射出装置すら要りません。単独で次元の壁をぶち抜けますよ、上宮」
「上宮くん、地球からの波長、はっきり掴めているわ」
副座の相羽みなみが、立体表示盤に浮かび上がる一条の黄金の光を両手で包み込むようにして振り返った。
「旭町の成増神社からよ。マナ、レプティリアンのオジサンが必死に空へ網を投げてくれている。それに、成増基地の防衛線からも、みんなの熱い鼓動が伝わってくるわ」
多朗は静かに頷いた。閉じた瞼の裏に、瓦礫の中で泥にまみれながら空を見上げている仲間たちの顔が浮かぶ。温かい麦茶を淹れて待っている御統琴音、不思議な直感で空のほつれを指差す九条、そして防空壕の前で銃を握り続ける大人たちと学友たち。
「待たせてしまった分、一瞬で駆けつけよう。剛田、いけるか」
多朗の問いかけに、前方の飛行操縦席に座る巨漢、剛田猛が獰猛に口の端を吊り上げた。
「当たり前だ。誰にものを言ってやがる」
剛田の両腕には、新宿の死闘で砕けた骨を繋ぎ止める金属製の固定金具が鈍く光っている。母船の生体再生医療槽から出たばかりで、操縦桿を握り締めるたびに接合部の骨がぎしりと音を立てて軋んだ。だが、その太い指が握る操縦桿には、成増の総菜屋「さわや」のきく子ばあちゃんの形見である白い布巾が、幾重にも固く巻きつけられている。
「ばあちゃんの布巾が馴染んでやがる。この操縦桿は俺の腕そのものだ。骨の一本や二本、成増の空に帰ってからいくらでも治してやるさ」
剛田が渾身の力で推進制御レバーを前へと押し込んだ。
その瞬間、機外で待機していた三機の自律無人機、イチ番、サン番、ロク番が【零二】の周囲にピタリと寄り添い、三角形の陣形を組んだ。
祭壇の奥から、かぐや姫の血を引く月人の長が静かに右手を掲げる。頭上の巨大な岩盤が音もなく左右へと割れ、漆黒の宇宙空間と、その遥か彼方に浮かぶ青い地球が姿を現した。
『行きなさい、地球の若き翼よ。オテントサマと私たちの祈りが、貴方たちの追い風となりますように』
月人の長の澄んだ声が、四人の脳裏に直接響き渡った。
「ありがとうございます。必ず、空を取り戻してきます」
多朗は深く一礼すると、正面の空を見据えて叫んだ。
「中枢母機【零二】、月面より発進!」
剛田が操縦桿を引き起こすと同時に、月読炉心が爆発的な白銀の輝きを放った。噴射炎すら伴わない、純粋な重力制御と位相転換による垂直上昇。機体は一瞬にして地下都市の吹き抜けを駆け上がり、月の希薄な大気を突き抜けて宇宙空間へと躍り出た。
眼下に広がる灰色の月面が、瞬く間に遠ざかっていく。そして正面には、黒い暗黒の海に浮かぶ青く美しい地球が、手を伸ばせば届くほどの大きさで迫っていた。
しかし、みなみの表情が険しく引き締まる。
「上宮くん、地球の周囲を取り巻く多面体の群れが、私たちの出現に気づいたわ。成層圏の外縁に、高密度の位相障壁を展開している」
表示盤には、地球を幾重にも取り囲む無数の赤い光点が映し出されていた。アメリカもロシアも中国も沈黙し、五族協和軍までもが地下へ逃げ込んだ今、地球の空は完全に異界の侵略者たちの巣窟と化していた。
「まともに正面から突破していたら、成増に着く前に日が暮れますね」
陣内が素早く鍵盤を叩き、三条の自律無人機を機首の前方へと展開させた。
「イチ番、サン番、ロク番、前方位相角を固定。月読炉心の余剰出力を防壁の一点突破に回します。上宮、みなみさん、座標の絞り込みを!」
「任せて。成増神社、社務所の上空三千メートル、誤差ゼロで繋ぐわ!」
みなみの指先が光の速度で虚空の演算式を編み上げていく。彼女の類まれな高次元位相計算力が、三十八万キロ離れた成増の街角と、月面の【零二】とを一本の見えない糸で結んだ。
その頃、地球の東京北西部、成増の街は断末魔の轟音に包まれていた。
「くそっ、また新しいのが降りてきやがったぞ!」
成増基地の防空壕前で、整備班長の山口晃、通称「山さん」が、硝煙で黒く汚れた顔を歪めて怒鳴った。
低く垂れ込めた鉛色の雲を突き破り、巨大な黒い正八面体が不気味な重低音を響かせながら降下してくる。その周囲からは無数の小型結晶体が雨あられと降り注ぎ、基地の滑走路跡を次々と抉り取っていた。
「潔、右翼の対空砲座が沈黙した! ヤイジ、旭町の神社との通信はどうなってる!」
大隊長の後藤和明、通称「カズ」が、砕けたコンクリートの遮蔽物に身を隠しながら叫ぶ。
「駄目だカズ、磁気嵐が酷すぎて音声が通らない! だが、神社の方向から凄い出力の黄金波が真っ直ぐ宇宙へ伸びてる。あいつら、まだ踏ん張ってるぞ!」
通信機を背負った稲葉元秀、通称「ヤイジ」が汗だくで答える。その隣で、副長の石田潔が冷静に双眼鏡を下ろした。
「カズ、敵の主力はあの大型多面体だ。あれが地表に着けば、基地の地下壕ごと押し潰される。残りの対位相弾をすべて集めても、外殻を割れるかどうかだ」
「やるしかねえだろ、潔。俺たちがここで尻尾を巻いたら、帰ってくる生徒たちに合わせる顔がねえ」
カズが苦笑いを浮かべて銃を構え直した、その時だった。
「あ、あのね」
すぐ後ろの土嚢の陰から、おっとりとした、戦場にはおよそ似つかわしくない柔らかい声が響いた。平行世界から迷い込んできた女子高生、九条が、小首を傾げながら鉛色の空の真ん中をじっと見つめている。
その横では、炊事班の御統琴音が、空になった麦茶のやかんを胸に抱きしめるようにして立ち尽くしていた。
「どうした、九条。また何か変な隙間でも見えたか」
山さんが声をかけると、九条はふんわりと微笑んで、雲の一点を人差し指で差した。
「ううん、隙間じゃないの。空の向こう側から、すっごく速い急行列車が来るよ。白くて、キラキラしてて、懐かしい匂いがするの」
「急行列車だと?」
カズと潔が顔を見合わせた瞬間、遠く離れた旭町の成増神社でも異変が起きていた。
「来る、来るよ! 多朗さんと相羽さんの波長が、真っ直ぐこっちへ飛び込んでくる!」
ボロボロに崩れかけた社務所の中で、未来から来た少女、マナが球体通信機を抱きしめて歓喜の声を上げた。
社務所の屋根の上で、迫りくる人型霊体の群れを重粒子銃で薙ぎ払っていたレプティリアンの将、ザルクスが、爬虫類の鋭い瞳をカッと見開いて天を仰いだ。
「ほう、あの小僧、本当に月の秘儀を成し遂げおったか! 応為、鉄山、もう一踏ん張りだ! 空の道を開けてやれ!」
「言われなくともやってるよ、トカゲの旦那!」
葛飾北斎の娘、応為が、自分の背丈ほどもある巨大な霊筆を渾身の力で宙に走らせ、神社の境内に張り巡らされた極彩色の結界をさらに強く輝かせた。
宇宙空間の【零二】の機内では、四人の呼吸が完全に一つに重なっていた。
「次元跳躍路、形成完了。成増まで一直線よ、上宮くん!」
みなみの声と同時に、多朗は主兵装兼用の位相転換トリガーを深く引き絞った。
「行くぞ、みんな! ただいまを言いに帰ろう!」
「おうよ! 歯ァ食いしばれ、野郎ども!」
剛田が金属金具の軋む音も構わず、操縦桿を限界まで押し倒した。
白銀の閃光が宇宙空間を切り裂いた。
三十八万キロという途方もない距離が、月読炉心の生み出す高次元跳躍によって、紙を折りたたむようにゼロへと収束していく。機体の周囲を流れる星の光が虹色の奔流へと変わり、次の瞬間には、眼前に地球の分厚い大気圏と、成層圏を覆う敵の位相障壁が迫っていた。
「障壁に接触します! 自律機、突撃形態!」
陣内の号令一下、イチ番、サン番、ロク番の三機が機首の先で一点に重なり、白銀の光の槍となって敵の赤い防壁へと突き刺さった。
これまでなら機体が弾き返されていたはずの分厚い位相の壁が、熱い鉄球を乗せられた氷のように、ジュッと音を立てて容易く融解し、大穴を穿つ。
「すげえ、豆腐みてえに突き抜けやがった!」
剛田が快哉を叫ぶ。大気圏突入の猛烈な摩擦熱すら、機体を包む白銀の幾何学文様が涼しげな光へと変換し、無力化していく。
一秒、二秒、三秒。
月から放たれた一筋の白銀の流星は、鉛色の厚い雲を真っ二つに引き裂き、絶望の淵に立たされていた東京・成増の空へと、音速を遥かに超える速度で突き刺さった。




