深海一万メートルの闇へ
荒れ狂う太平洋の海面を突き破り、敵性多面体は漆黒の深淵へと没していった。
水深十キロを超えるマリアナ海溝の最深部、チャレンジャー海淵。光の届かぬ絶対零度と超高水圧の世界へ逃げ込むことで、敵は外殻の再構築と海底地殻の相転移を完了させる算段である。
母機【NX零二】の操縦席では、赤熱した計器盤の警告音が静まり、代わりに鈍く低い重低音が響いていた。
「剛田、陣内、相羽。ここから先は空ではなく水圧の壁だ。通常の航空力学も、人間の生体耐性も一切通用しない領域に入る」
主座に座る上宮多朗は、額の生体端子から伝わる冷たい水流の気配を感じ取りながら告げた。
現代の人類が誇るいかなる潜水艇であっても、水深一万メートルの圧力を受け止めれば一瞬でペチャンコに押し潰される。だが、オテントサマの分子ナノ技術が注ぎ込まれたダイヤモンドイド完全一体成型機である母機【NX零二】は、単なる物理的強度を超えた次元にあった。
「分かっているさ、多朗。機体の外皮は、オテントサマの分子アセンブラがすでに全原子の結合位相を再構築し終えた。水深一万メートルの水圧など、ただの等圧の位相場として相殺してやるよ」
機体制御席の剛田猛は、両腕のボルト留めされた金属固定具から滲む血をきく子ばあちゃんの形見の布巾で拭いながら、力強くうなずいた。その表情には巨漢らしい不敵な笑みが浮かんでいる。
「そうだね。母機単体でも耐圧構造は十分だけど、それだけでは海流の摩擦熱と結晶化干渉を防ぎきれない。行くよ、陣内くん」
副座の相羽みなみは専用眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、戦術携帯端末の演算結果を弾き出した。
機関制御席の陣内蓮は眼鏡の位置を正すと、手動の制御盤を叩き、推進器の水中位相切り替えシークエンスを起動させた。
「推進器の出力を水中反転モードへ移行。分子結合の耐圧同調、完了した。オテントサマのナノ技術と、ザルクスたちの重力制御波を重ね合わせるぞ」
陣内の操作に呼応するように、母機【NX零二】の周囲の空間が微かに歪んだ。
上空の防衛線を任された三万機の通常ドローン網は水中行動に不向きなため海面上空で待機しているが、成層圏から滑空してきたザルクス率いるレプティリアン生体戦闘艇群が、母機を護衛するように音もなく海中へと滑り込んできた。
レプティリアン艇の鏡面装甲から放たれる重力制御の波が、母機の周囲に不可視の防壁を形成する。そのおかげで、周囲を押し潰そうとする数千トンの海水は母機に直接触れることなく、まるで滑らかな斜面を滑るように左右へと逃げていった。
光の一切ない漆黒の深海において、唯一の光源となるのはレプティリアン生体艇の鏡面発光が放つ青白い微光だけであった。
水深三千、五千、そして八千メートル。
計器盤の深度計が容赦なく数字を跳ね上げていく。母機の外殻が深海の巨圧に軋み、甲高い金属音がかすかに響くが、ダイヤモンドイドの結晶構造が瞬時に分子配列を組み替えてその負荷を完全に吸収していく。
その時、太平洋の海底ケーブル網を防衛している三男・上宮海斗の部隊から、暗号化された緊急通信が母機の受話器を叩いた。
『こちら海中防衛隊、三男の海斗だ。多朗、聞こえているか!』
通信機から飛び込んできた海斗の声には、緊迫した空気が色濃く滲んでいた。
『マリアナ海溝の最深部、熱水鉱床が集中する海底裂け目の直上において、敵性多面体から異常な位相エネルギーの爆発的膨張を観測した!奴は単に隠れているんじゃない、海底のマグマと地殻のエネルギーを直接吸収して、周囲の岩盤そのものを幾何学結晶へと相転移させ始めている!』
「海斗兄さん、そちらの状況はどうだ。防衛網はもっているか」
多朗が通信機に向かって鋭く問い返す。
『なんとかケーブル網の結節点は死守しているが、海底の岩盤が結晶化する速度が予想をはるかに超えている。このまま奴が最深部の中心核に定着すれば、日本列島を含む太平洋全域のプレートが連鎖的に相を起こし、地球の表層全域が消滅するぞ!』
海斗の警告が終わるか終わらないうちに、母機【NX零二】の前面モニターに不気味な映像が映し出された。
水深一万メートルの海底。そこに広がっていたのは、暗黒の深海ではなく、冷たい青白い光を放つ巨大な結晶の迷宮であった。
先ほどまで黒鉄色の外殻を誇っていた敵性多面体は、深海の熱水鉱床の上にその巨体を下ろし、傷ついた装甲の裂け目から無数の光の繊維を海底の岩盤へと突き刺していた。多面体の周囲の海水はすでにすべて鋭利な結晶柱へと変わり、海底一帯を生きた要塞へと変貌させている。
「見えたぞ、あいつが敵の中枢だ」
剛田が操縦桿をしっかりと握り締め、母機の速度をわずかに落とした。
レプティリアン生体艇の群れが敵の周囲を取り囲み、重力波の砲門を静かに開く。母機【NX零二】の後方では、六基の小型無人機が微弱な青い光を放ちながら多朗の神経網を支えていた。
「上宮くん、敵の周囲の空間位相は完全に固定されています。外殻の再生が完了する前に、内部の中枢核を直接叩くしかありません」
相羽の冷静な声が、沈黙に包まれた深海の操縦席に響いた。
光の届かぬ海底一万メートルの闇の中で、世界を救うための最終決戦がまさに始まろうとしていた。




