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都立 成増航空高等学校  作者: 秋津ネオ


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百四十秒の死線

 マリアナ海溝上空の成層圏と対流圏の境界領域が、砕け散った結晶の燐光に染まっていた。


 米軍残存編隊の尊い捨石の突撃、三万機の自律無人機群による飽和斉射、そしてザルクス率いる古代先住種族の生体戦闘艇群が放った高出力の重力波。三つの異なる戦力が一点に交差した瞬間、敵性多面体の周囲を幾重にも覆っていた幾何学結晶の障壁は、ガラス細工が砕け散るように崩壊した。


 爆風と衝撃波が白い雲海を吹き飛ばす。砕けた結晶の破片は、大気中で次々と光の粒子へと還元され、激しい乱気流の渦の中へ吸い込まれていく。


 その眩い光の幕が剥がれ落ちた向こう側から、遂に敵性多面体の本体が姿を現した。


 それは、太陽の光を一切反射しない異様な黒鉄色の巨体であった。


 地球上のいかなる既存の金属とも異なる、超高密度の未知なる物質で構成された多面体の外殻。滑らかでありながら、その表面には無数の微細な幾何学紋様が血管のように浮き彫りになり、不気味な青白い光を帯びて周期的に脈動している。外殻の周囲では空間そのものが熱せられた陽炎のように歪み、触れようとする大気の分子結合を直接書き換えようとする相転移の余波が、黒い稲妻となって激しく弾けていた。


 「障壁の完全消滅を確認しました。敵性多面体の本体外殻が露出しています」


 母機【NX零二】の副座から、相羽みなみの凛とした品格ある声が操縦席内に響いた。


 専用眼鏡の奥の瞳が、前方に展開された戦術携帯端末の立体表示を鋭く捉えている。そこには露出した黒鉄の外殻の表面積、質量密度、そして高次元位相の変移数値が滝のように流れ落ちていた。


 「上宮くん、敵の外殻は現在、砕かれた障壁を再構築するために内部の位相出力を表面へ再配分しています。再び結晶障壁が形成されるまでの猶予は、およそ百四十秒。こちらの攻撃が通じるのはこの瞬間だけです」


 「百四十秒か。相羽、外殻の中で最も脆い箇所はどこだ」


 主座に身を沈めた上宮多朗は、額に宿る古代の生体端子に走る灼けるような熱を堪えながら問い返した。


 多朗の対位相視覚装具には、母機の視覚情報だけでなく、周囲を飛翔する六基の小型無人機、さらにはその先の通信網に連なる三万機の軍用無人機群が捉えた立体映像が幾重にも重なって映し出されている。


 「敵正面よりやや右下方、第三象限の斜面部中央です。先ほどのレプティリアン艇の重力波が直撃した影響で、外殻の分子格子に微細な位相のズレが生じています。直径にしてわずか1メートルほどの狭い領域ですが、そこならこちらの火力を内部中枢までねじ込めます」


 相羽が腕輪型の演算装置を操作して指し示した座標が、多朗の網膜に赤い照準環となって焼き付いた。


 だが、敵もただ黙って的になり続けるわけではない。黒鉄色の外殻の表面に刻まれた幾何学紋様が激しく明滅したかと思うと、その角の一つから、局所的な空間歪曲波が全方位へ向けて放射された。


 直後、母機【NX零二】を猛烈な乱気流と重力干渉のうねりが襲った。


 機体が激しく縦横に揺さぶられ、全身の血液が鉛のように重くなる過酷な加速度が四人の搭乗員を座席へと押し潰す。ダイヤモンドイド完全一体成型で作られた母機の外皮が、空間のねじれに抗して甲高い金属音を上げた。


 「ぐおおおっ、小癪な真似を、しやがって!」


 機体制御席で咆哮を上げたのは、巨漢、剛田猛だった。


 激しく暴れ狂う操縦桿を抑え込む彼の両腕には、新宿決戦で負った負傷した腕を固定するための金属具が装着されている。過大な操縦負荷によって、骨に直接打ち込まれたボルト留めの金属具が皮膚を食い破り、じわりと赤黒い血が滲み出した。


 骨の髄まで響く激痛に脂汗を滲ませ、奥歯を噛み締めながらも、剛田の指先は決して緩まない。彼の分厚い掌と操縦桿の間には、成増の総菜屋「さわや」のきく子ばあちゃんから受け取った形見の布巾が、幾重にも固く巻きつけられていた。血と汗を吸ったその布巾の感触だけが、剛田の意識を極限の戦場へと繋ぎ止めている。


 「多朗、揺れは気にするな!機首は俺が死んでも、相羽の言ったど真ん中に縫い止めておく!お前は照準だけに集中しろ!」


 「剛田、ありがとう。頼むぞ」


 多朗は血を流しながら舵をねじ伏せる友の背中に、深い感謝と信頼を向けた。


 その後方の機関制御席では、眼鏡をかけた理知的な少年、陣内が赤熱する計器盤と向き合っていた。相転移の余波によって周囲の大気密度と温度が乱高下し、母機の推進器には設計上の限界を超える熱負荷が断続的に押し寄せている。普段は感情を表に出さない陣内の額にも玉のような汗が浮き、眼鏡の奥の瞳が険しく細められた。


 「第一および第三推進器、燃焼室の温度が危険域に接近している。分子自己修復機構へ回す電力と推進出力が競合している状態だ」


 陣内は冷静な声で現状を分析しながら、自らの限界を超える速度で手動の制御盤を操作し、冷却媒体のバイパス弁をミリ秒単位の精度で開閉していく。


 「剛田、そのまま強引に機首を押し込め。君が切る舵の負荷は、僕が推進器の推力偏向ですべて計算して受け止める。冷却槽の予備弁を解放、液体窒素を直接配管へ注入する」


 陣内が操作柄を引き抜くと、機体内部の配管から鋭い蒸気排出音が響き、上昇し続けていた主機の温度計がピタリと制止した。


 しかし、敵外殻へと急速接近するにつれ、空間歪曲の圧力はさらに増大していく。母機【NX零二】の右翼内側の駆動部から、不規則な振動と軋み音が伝わり始めた。飛行中に損傷を瞬時に治す分子機械の修復速度を上回るほどの負荷が、機体の関節部に集中していたのである。


 その時であった。


 激しい磁気雑音と空間干渉の嵐を突き破り、太平洋の海底通信網を経由した一本の暗号回線が、母機の通信機へと割り込んできた。


 『上宮、陣内、聞こえるか。こちら成増基地地下格納庫、榊だ』


 通信機から届いたのは、低く落ち着いた、それでいて揺るぎない芯を持った青年の声、三年生の榊先輩であった。


 遠く離れた東京・成増基地の地下深く。薄暗い非常灯が照らす格納庫では、白銀色の短髪を油と煤で汚した榊先輩が、左目の下の十字傷に汗を伝わせながら遠隔計測器の表示盤を睨み据えていた。彼の首元に装着された首輪型の神経加速装置が、限界を超えた情報処理と基地防衛の指揮によって淡い紫色の光を放っている。


 その後方では、鳴海と四條の二人が、手足をもぎ取られ装甲を剥がされた複数の機体の残骸の間を駆け回り、母機【NX零二】へ送るための補助電力回路と機体テレメトリの維持に奔走していた。出撃する母機を万全の状態で送り出すため、榊先輩たちは自らの愛機を解体し、その最良の部品を母機へと供出したのである。


 『母機の遠隔計測値に、右翼内側の流体関節と第二冷却配管の圧力低下が出ている。その右翼の関節駆動機は、俺の機体から外して移植した部品だ』


 普段は寡黙な榊先輩が、後輩たちの命を繋ぎ止めるために的確かつ迅速に言葉を継ぐ。


 『俺の機体の駆動機には、高負荷時の初期馴染みに特有の癖がある。最大推力をかけた際、油圧の立ち上がりに零点三秒の遅れが出る。陣内、そのままでは右翼の推力同調がずれて機体が横に滑るぞ。補助弁を通常の二割余分に開けて、初動の圧力を底上げしろ。鳴海と四條が、地上側から位相補正の計算値を今そちらへ送っている』


 「榊先輩、鳴海先輩、四條、ありがとうございます!」


 多朗は通信機に向かって深く頭を下げる思いで応じた。戦場に立つのは自分たち四人だけではない。成増の地下で、油にまみれて愛機の部品を託し、今も後方防衛に就きながら数値を送り続けてくれる先輩や仲間たちの魂が、この機体には宿っている。


 「零点三秒の遅延、確認した。道理で計算値と実際の油圧が噛み合わないわけだ。助かります、榊先輩」


 陣内は即座に鳴海と四條から送られてきた補正数値を取り込みながら、榊先輩の指示通りに右翼配管の補助弁を二割大きく開放した。


 次の瞬間、右翼から伝わっていた不快な微振動がピタリと消え去った。左右の推進器の出力が完璧な調和を取り戻し、母機【NX零二】は空間の歪みを切り裂いて、一本の矢のように敵性多面体の懐へと突き進んだ。


 『油圧の同調を確認した。そのまま突き進め、上宮。成増は俺たちが守る。お前たちは前だけを見ろ』


 短くも熱い榊先輩の言葉に、剛田が歯を食いしばったまま口角を上げた。


 「聞いたか、多朗。榊先輩たちの部品を無駄にするわけにはいかねえな。距離を詰めるぞ、衝撃に備えろ!」


 母機【NX零二】が高度を詰め、黒鉄の外殻まで肉薄する。


 多朗は大きく息を吸い込み、意識のすべてを額の生体端子へと集中させた。人間の傲慢さや功名心など微塵もない、ただ仲間たちの献身に報い、この世界を破滅から繋ぎ止めたいという静かで澄み切った祈り。


 その生体信号に呼応し、母機の周囲を飛翔する一号機から六号機の小型無人機が、一斉に幾何学的な六角形の陣形を展開した。


 無駄な雑談や軽口は一切ない。六基の小型無人機は、多朗の神経網と直接結合された高精度な自律支援知性として、冷徹かつ完璧にそれぞれの職掌を遂行する。


 『一号機および二号機、前方領域へ突出。目標外殻の第三象限における空間位相の乱れを計測、射撃諸元を算出』


『三号機、母機の生体維持数値および機関部の熱量分布を監視。搭乗員四名の神経同調率、正常範囲を維持』


『四号機および五号機、射撃管制の基点座標を固定。三万機の無人機群へ火線収束の誘導信号を伝達』


『六号機、敵外殻より漏出する相転移電磁妨害に対し、逆位相の相殺波長を広域展開』


 六基の小型無人機が中継点となることで、多朗の意識は太平洋上空を埋め尽くす三万機の軍用無人機群の制御網へと瞬時に直結された。


 三万の機械の照準が、相羽の特定した「第三象限・斜面部中央」の微小な歪みへと一斉に収束する。


 「相羽、照準の最終固定を」


 「了解。敵外殻の位相歪み、座標固定完了。障壁の再形成まで残り四十秒です。今しかありません、上宮くん!」


 「全機、一点集中射撃。黒鉄の外殻を穿て!」


 多朗の思考指令が、光速で三万機の無人機群へと駆け抜けた。


 空を覆う無数の無人機が一斉に機首を傾け、高密度荷電粒子砲と超高速徹甲弾の豪雨を解き放った。幾万条もの閃光が束となり、マリアナの空を白昼のように照らし出しながら、黒鉄の外殻の一点へと吸い込まれていく。


 それとほぼ同時であった。


 高高度に展開していたザルクス率いるレプティリアンの鏡面生体戦闘艇群が、音もなく一列に整列した。彼らから人間側への通信は一切ない。ただ地球という惑星の秩序を乱す異物を排除するという冷厳なる意志のもと、鏡面の円盤群から空間そのものを押し潰す超高密度の重力波が放たれた。


 その重力波の楔は、多朗たちが撃ち込んだ三万の火線の収束点へと、寸分の狂いもなく重ね合わされた。


 さらに、剛田が血の滲む布巾を握り締めて機体を限界まで踏み込ませ、母機【NX零二】の機首に備えられた分子崩壊砲が、至近距離から決定的な一撃を放った。


 「貫けええええっ!」


 大気を震わせる剛田の咆哮とともに、青白い高熱量の奔流が黒鉄の外殻の歪みへと直撃した。


 一秒、二秒。すべての光と音が一点に凝縮し、異様な静寂が戦場を支配した。


 直後、太陽がもう一つ生まれたかのような猛烈な閃光が弾け飛んだ。


 絶対に傷つかぬと思われた黒鉄色の外殻が、遂に耳を劈くような高周波の軋み音を上げた。


 重力波で分子結合を拘束され、三万機の集中砲火で表面を削り取られ、母機の分子崩壊砲を中枢へとねじ込まれた外殻の第三象限に、稲妻のような巨大な亀裂が走ったのである。


 亀裂は瞬く間に外殻の側面へと広がり、黒鉄色の分厚い装甲板が内側から吹き飛んだ。


 抉り取られた巨大な傷口から、敵性多面体の内部に充満していた青白い高次元物質が、間欠泉のように激しく噴き出した。


 「やったぞ、外殻が砕けた!」


 剛田が歓喜の声を上げた。だが、副座の相羽の表情は険しく引き締まったままであった。


 「待って、まだ終わっていません!敵内部の質量反応が消滅していないのです!」


 相羽の警告通りであった。


 外殻の一角を深く抉られ、青白い奔流を噴き出しながらも、敵性多面体は空中での爆散には至らなかった。それどころか、傷口から溢れ出た高次元物質が周囲の大気と海面へと降り注ぎ、触れた水蒸気を瞬時に漆黒の幾何学結晶へと相転移させ始めたのである。


 次の瞬間、敵性多面体の全身に刻まれた幾何学紋様が、どす黒い赤色へと変色した。


 多面体は自らの周囲の重力場を強引に反転させると、大気を切り裂く轟音とともに、鉛色に荒れ狂うマリアナ海溝の海面へ向けて急速に落下を開始したのだ。


 「墜落しているのか。いや、違う、この軌道は意図的な急速潜航だ!」


 陣内が戦術端末の数値を見て鋭く声を上げた。


 それは敗走や墜落ではなかった。上空での集中砲火によって外殻を貫かれた敵性多面体は、地球上で最も深いマリアナ海溝の深淵、水深一万を超える超高水圧と地殻の裂け目が存在する暗黒の海底へと自らを沈めることで、追撃を遮断し、深海そのものを相転移させて自己修復とさらなる巨大化を図ろうとしていたのだ。


 巨大な黒鉄の塊が、マリアナの海面へと激突した。


 想像を絶する水柱が天を衝く高さまで噴き上がり、海面が広範囲にわたって巨大なすり鉢状に陥没する。しかし、舞い上がった海水はただの飛沫として落ちることはなかった。敵の傷口から漏れ出す位相波に触れた瞬間、巨大な水柱も、逆巻く大波も、すべてが空中で鋭利な黒色の結晶氷柱へと相転移し、おびただしい数の結晶の槍となって海面へと突き刺さったのである。


 「観測数値を更新。敵性多面体、海面下へ完全突入。極めて高い速度でマリアナ海溝の最深部へ向けて沈降中です」


 相羽の声に、張り詰めた緊張が滲む。立体表示盤に映し出された海中の断面図では、敵が沈んでいく軌跡に沿って、深海の海水が次々と幾何学的な結晶構造へと書き換えられ、海溝の入口そのものが巨大な結晶の迷宮へと変貌していく様子が示されていた。


 「上宮くん、敵はマリアナ海溝の底、地殻の熱量が噴出する熱水鉱床に根を下ろすつもりです。もし最深部で外殻の修復を終え、海底地殻の相転移が始まれば、太平洋全域の岩盤が結晶化して地球の表層そのものが崩壊します」


 通信機からは、成増基地の榊先輩の緊迫した声も飛び込んできた。


 『上宮、宇宙監視センターから転送されてきた地殻変動数値でも、マリアナ海溝の直下で異常な位相膨張が確認されている。深海へ逃げ込んだあいつを、海底に定着する前に叩くしかない』


 「逃がすかよ。ここまで来て、海の底へ隠れられてたまるか!」


 剛田が血まみれの布巾を握り直して操縦桿を押し込もうとしたが、陣内が冷静かつ強い口調で制止した。


 「待て、剛田。現在の空中戦仕様のまま海面へ突入すれば、深海の超高水圧と海水の結晶化干渉によって、敵に届く前に推進器が圧壊する。突入するには、分子結合の耐圧同調と推進器の水中位相切り替えが不可欠だ」


 荒れ狂う海面では、結晶化した黒い氷柱の群れが不気味に突き立ち、巨大な渦潮が黒鉄の多面体を暗黒の深淵へと呑み込みつつあった。空には弾薬を撃ち尽くした無人機群と、静かに旋回するレプティリアンの生体艇群が並び、海面から立ち昇る白煙が視界を閉ざしていく。


 『一号機より四号機、海面直下へ観測素子を投下。音波探知および磁気観測により、敵性多面体の沈降経路を追跡中。現在水深二千を通過、外殻損傷部位において海水を取り込んだ結晶再構築の兆候を確認』


 脳裏に響く小型無人機の無機質な報告を受け止めながら、多朗は激しい呼吸を整え、渦巻く太平洋の黒き海面を睨み据えた。


 外殻は確かに穿った。だが、真の決着をつけるためには、光の届かぬマリアナ海溝の最深部という未知の領域へ踏み込まなければならない。傷だらけの母機【NX零二】は、荒れ狂う海原の上空で、深淵へと続く次なる死闘の入り口に立たされていた。


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