四限終了とおばんざい
キーンコーンカーンコーン。
四限目の終了を告げるチャイムが校内に鳴り響いた瞬間、1年A組の教室のあちこちから、獣のような低い呻き声が一斉に上がった。
「うぐぐ。終わった。ついに午前の地獄が終わったぞ」
前方の席で、剛田が机の上に両腕を投げ出し、そのまま突っ伏した。前日のシャトルランによる重度の筋肉痛は、時間が経つごとに悪化の一途を辿っていた。四限目の座学中、ずっと同じ姿勢を保っていたせいで、下半身の筋肉がカチカチに固まってしまっているのだ。
多朗もまた、浅い息を吐き出しながら自分の太ももを静かに揉みほぐした。立つだけで激痛が走る状態であり、自分の足でありながら自分の体ではないような奇妙な感覚に襲われている。
「おい多朗、俺はもう駄目だ。一歩も動けん。立ち上がった瞬間に両膝が爆発する気がする。琴音たちは、琴音たちはまだ届かないのか」
剛田が机に顔をうずめたまま、恨めしそうな声を絞り出す。
「静かに待てよ。四限が終わったばかりだろ。今頃、女子クラス側の購買もごった返しているはずだ」
多朗は苦笑しながら、固まった腰を慎重に伸ばした。教室の男子生徒たちは皆、幽霊のような足取りで自分の席から動けずにいる。
その時、ガラガラと教室の引き戸が勢いよく開いた。
「はいはい、お待たせ。剛田くん、まだ息はあるかしら」
軽やかな足取りで入ってきたのは、琴音と相羽だった。相羽の手には、白いビニール袋が大切そうに握られている。
「神様、仏様、琴音様!」
剛田が驚異的な反応速度で上半身を跳ね起きさせた。その勢いであまりの激痛が走ったのか、直後にぐえっと変な声を上げたが、目は完全にビニール袋に釘付けになっている。
琴音が苦笑しながら多朗の机の上に置いたのは、ずっしりと重みのある紙包みだった。購買で最も熾烈な争奪戦が繰り広げられる、限定のカツサンドとエビカツサンドである。
「本当に買ってきてくれたんだな。ありがてえ、マジで命の恩人だ」
剛田が震える手で紙包みを受け取り、拝むように胸の前で掲げた。
「凄い執念ね。購買のおばちゃんに剛田くんの分だって言ったら、一番カツが分厚くて重いやつを選んでくれたわよ。感謝しなさいね」
相羽が呆れ顔で自分の小さなお弁当箱を広げ、多朗の前の席の椅子を反対向きにして腰掛けた。多朗も琴音にお礼を言いながら、自分で用意していたコンビニの黒糖パンを取り出す。
剛田は一切の躊躇もなくカツサンドの大きな包みを破り、分厚い衣に覆われた肉へ豪快に食らいついた。一口噛み締めるたびに、美味すぎる、と涙目になりながら喉を鳴らしている。
「あの、ここに混ざってもいいですか」
不意に、鈴の鳴るような澄んだ声が横から響いた。
振り返ると、マナが自分の丸椅子を両手でしっかりと抱え、ちょこんと多朗の机の脇に立っていた。通学カバンの紐を握っていた朝と同じように、どこかお行儀よく、それでいて遠慮のない無邪気な瞳で多朗を見つめている。
「おうマナか。もちろんいいぞ。狭いけど座れよ。お前、昼飯は何なんだ」
剛田が口の周りに濃厚なソースをつけたまま尋ねた。
「ありがとうございます」
マナは嬉しそうに微笑むと、丸椅子を多朗の机の横にすっと滑り込ませた。そして、自分のカバンから丁寧に取り出したのは、古風な紺色の木綿の包みだった。
結び目を慎重に解いていくと、中から現れたのは、現代の高校生が持ってくるものとは思えない、小ぶりで渋い光沢を放つ二段重ねの漆塗り弁当箱であった。
「へえ、マナってお弁当派だったんだな」
多朗が興味深そうに視線を向ける。漆の蓋が外されると、ふわりと出汁の優しい香りと、ほろ苦い醤油の香気があたりに漂った。
上段には、粗塩が振られた小さめの三角形のおむすびが二つ、綺麗に並んでいる。海苔の巻き方も一切の無駄がなく美しい。
そして下段には、クラスの男子が日常で目にする機会のない、色鮮やかで繊細なおかずが整然と敷き詰めて並べられていた。
「なぁマナ、それ何だ。ピーマンをクタクタに煮たやつか」
剛田がエビカツサンドを片手に持ちながら、不思議そうにお弁当箱を指さした。
「これは、万願寺唐辛子とお雑魚の炊いたんです。こっちは、すぐきと柴漬けですね。あと、こちらの深緑色のものは、茄子のオランダ煮です」
マナは誇らしげに、しかし上品な口調で料理の名前を一つずつ指で示していった。
「タイタン。オランダ。なんだそれ、呪文か何かか」
剛田が首を傾げる横で、相羽が箸を止め、感心したようにマナのお弁当箱を覗き込んだ。
「それ、おばんざいよね。京都の伝統的な家庭料理じゃない」
「おばんざい。何だそれ、お惣菜のことか」
多朗が尋ねると、相羽は腕を組んで解説を加えた。
「ただのお惣菜とは違うわよ。季節の野菜や乾物を美味しく無駄なく使う、昔ながらの知恵が詰まった料理のこと。テレビの旅番組なんかで見たことあるけど、高校生が普段持ち歩くお弁当のメニューじゃないわね。マナさん、それどこで買ったの。成増の駅前や街道沿いに、そんな洒落たお店があったかしら」
相羽の鋭い問いかけに、マナはまったく動じることなく、いつもの柔らかな笑顔を返した。
「えっと、近所の方が毎朝作って持たせてくれるんです。身体にとても良いから残さず食べなさい、って」
近所の人。多朗の脳裏に、昨日マナが一人で歩いていった川越街道の先、旭町の古い住宅街の風景が浮かんだ。あそこにある静まり返った社に、そんな本格的な料理を毎朝仕込む人物がいるのだろうか。
「あの、多朗さん。よかったら、一口食べてみますか」
マナが細い漆塗りの箸を持ち、茄子のオランダ煮を一つ、ちょこんと持ち上げて多朗の前に差し出した。油で揚げてから出汁でじっくりと煮込まれた茄子は、深みのある濃い紫色の光沢を放っている。
「え、いいのか。じゃあ、ありがたく頂くよ」
多朗は差し出された茄子を自分の箸で受け取り、口へと運んだ。
噛んだ瞬間、豊かな出汁の旨味と絶妙な甘味が口いっぱいに広がった。単に美味しいという言葉だけでは言い表せない、身体の細胞一つ一つにじわじわと染み渡っていくような、不思議な濃密さがある。
次の瞬間、多朗の全身を包んでいたあの重苦しい筋肉痛の痺れが、ほんの少しだけ和らいだような感覚が走った。胃の奥からじんわりと温かい熱が広がり、疲労で霞んでいた頭の奥が、すっと冴え渡っていく。
なんだこれは。多朗の奥底にある直感が、かすかな警鐘とともに鋭く反応した。ただの家庭料理ではない。まるで綿密に計算された栄養と、何か特別な力が練り込まれているかのような感覚だった。
「どうですか、多朗さん」
マナが顔を覗き込んでくる。その瞳には、多朗の反応を慈しむような深い光が宿っていた。
「すごく美味い。なんていうか、身体の底から元気になる味がする」
「よかったです。多朗さんのために作ってもらったものですから」
マナは心底嬉しそうに微笑み、自分もおむすびを小さく一口かじった。
「おいおい多朗、一人だけズルいぞ。俺にもそのタイタンってやつを食わせろよ」
剛田が割り込もうと箸を伸ばしかけた、まさにその時だった。
ガラガラガラ。
教室の前方の引き戸が、乱暴な音を立てて開いた。
「おい、お前ら。飯の最中に失礼するぞ」
現れたのは、首から金属製の笛を下げ、汗の染みついた黒いジャージを着た数学教師の後藤であった。その手に握られた出席簿が、パシッと音を立てて自身の太ももを叩く。
一瞬で教室の和気藹々とした空気が凍りついた。カツサンドを大口で頬張っていた剛田の動きが、完全に停止する。
「後藤教官、五限は確か数学の座学のはずですが」
学級委員長の陣内が、固まった表情のまま問いかけた。
後藤は眉間に深いシワを刻み、鋭い眼光で教室全体を見回すと、チョークの粉で汚れた手で自身の首筋をガリガリと掻いた。
「予定変更だ。グラウンドの全面使用許可が急遽下りた。五限は全員、体操着に着替えてグラウンドに集合しろ。昨日の走破訓練の続きを行う」
「な、なんだって」
剛田の口から、噛み砕かれたカツサンドの破片が零れ落ちそうになった。教室のあちこちから絶望の悲鳴が上がる。
「教官、無理です。みんな昨日のシャトルランでまともに歩けない状態です」
琴音が必死の思いで声を上げたが、後藤は一切耳を貸そうとしなかった。むしろ、その怖面をさらに強張らせ、昭和の体育教師そのままの怒声で教室を圧迫した。
「甘えるな。実戦で足が痛いから待ってくれが通用すると思うか。動かない足なら、動くまで叩き直すのが成増のやり方だ。十分後にグラウンドへ出ろ。遅れた奴は周回数を倍にするぞ」
後藤はそう吐き捨てると、引き戸をバシャーンと大きな音を立てて閉め、去っていった。
絶望的な静寂が教室を支配した。剛田は手に持ったカツサンドを見つめたまま、白目を剥いて倒れそうになっている。
「死ぬ。今度こそ俺は死ぬぞ」
「泣き言を言っても始まらないわよ。早く食べ切って着替えるわよ」
相羽が溜息をつきながら立ち上がったが、その足取りも極めて重い。
多朗は立ち上がりながら、隣のマナを見た。マナは慌てる様子もなく、静かな手つきでお弁当箱の蓋を閉め、紺色の風呂敷を綺麗に結び直していた。
その横顔には、これからの過酷な訓練に対する恐怖も不安も微塵も浮かんではいなかった。多朗の身体に残るおばんざいの微かな温もりだけが、来たるべき狂乱の時間を前に、静かに脈打っていた。




