白く凍るマリアナ
密閉された操縦席の内部に、低く太い振動が満ちていた。
黒銀の巨体が、長い眠りから醒めて静かに息を吸い込む。
機体各部の分子が結束を強め、ダイヤモンドイドの外殻が一枚の剛体となって硬化した。
赤塚三中カルテットが徹夜で命を吹き込んだ主機が、まさに産声を上げた瞬間だった。
主座席の多朗は、全身の神経を機体の電子頭脳へ接続した。
思考の海が広がり、機体外縁の感覚が自身の皮膚のように研ぎ澄まされていく。
操縦席右側では、剛田猛が両腕の金属固定具を軋ませていた。
負傷した腕をボルトで固めた激痛に顔を歪めながらも、両手で握り締めているのは操縦桿だ。
その太い金属棒には、成増の総菜屋「さわや」の、きく子ばあちゃんの形見の布巾が硬く巻きつけられている。
色褪せた綿の布に染みた出汁の匂いと手の温もりが、固定具の痛みを闘志へと変えていた。
「ばあちゃん、見ててくれよ。この腕が砕けようが、成増の看板背負って海の底までぶち飛んでやる」
左側の席で計器を指先で弾いていた陣内が、鋭い視線を正面の投影幕へ据えた。
「戯言は勝ってから言え、剛田。主機の同期率、九十八点五を突破」
副座席の相羽みなみが、深く一度息を吐き、静かに顎を引いた。
「思考接続、全系統連動。いつでも飛べる」
『各員、聞こえるか』
通信装置から、煤で汚れた顔の男の声が飛び込んできた。
統合整備統括長、山口晃だ。
機体外部の作業足場から、無線を通じて四人に怒鳴り込んでいる。
『外殻の分子再構築、推進噴射の調律、すべて完璧に仕上げた。新宿の傷は一つも残っちゃいねえ。だが無茶はするな。この機体はお前たち四人の命そのものだ。必ず生きて帰ってこい』
「了解、統合整備統括長。最高の機体をありがとうございます」
多朗は機内から通信を返した。
操縦席の視覚受像の隅に、基地深部の映像が小さく投影された。
青い光を湛えた円筒状の生体維持水槽。
培養液の中に浮かぶマナの姿だ。
新宿決戦で神経を焼き切られ、深い昏睡の底に沈んだまま、少女は静かに浮遊している。
相羽が機内通話へ呟くように言った。
「マナ、行ってくるよ。マナが守ったこの空と成増の街は、絶対に渡さない」
返事はない。だが、その寝顔は四人の胸の奥に、消えない青い火を灯していた。
『特務迎撃隊、これより作戦命令を伝達する』
通信回線が切り替わり、世界連合軍特務迎撃大隊長、後藤和明一等空佐の鋼の声が響いた。
大隊副長兼統括参謀の石田潔二等空佐が、作戦室から全周視界へ直接、最新の衛星偵察情報を送り込んでくる。
投影されたのは、太平洋中央、マリアナ海溝の上空映像だった。
四人は同時に息を呑んだ。
深い群青色であるはずの太平洋が、そこだけ白く濁り、巨大な角砂糖のような幾何学的結晶の平原へと変貌していた。
海面を覆い尽くす巨大な角錐と多面体の柱。
その白い結晶の山に、世界連合軍主力艦隊の巨艦が無数に串刺しにされていた。
数万トンの船体が紙屑のようにひしゃげ、真っ二つに裂けた巡洋艦が斜めに突き立っている。
『戦闘分析部隊長の稲葉だ』
冷徹な声が割り込んできた。一等空佐相当の稲葉元秀だ。
『今朝未明、海溝最深部より超巨大な敵性多面体が浮上した。敵の放った相転移波動により、水深数千米に及ぶ海水が一瞬で固体へと結晶化した。艦隊は沈没すらできず、膨張した結晶の巨大な圧力で挟まれ、瞬時に圧壊したのだ』
「海水が、固体に」
多朗の背筋に冷たいものが走った。
『そうだ。敵の狙いは地球規模の相転移だ。すでに結晶化は時速数十粁で拡散している。太平洋全域が白い石の塊となれば、海洋生態系は全滅し人類は滅亡する』
後藤の号令が、機内を震わせた。
『母機【NX零二】、直ちに出撃せよ。目標はマリアナ海溝の敵性多面体。核の粉砕、ならびに海水相転移の強制停止。地球の海を取り戻せ』
四人は同時に叫んだ。
「了解」
『地下射出軌道、開口』
石田の指示とともに、母機の直下に敷かれた成増基地の長大な電磁軌道が露わになった。
赤く点滅する誘導灯が、地底の闇の奥へと延びている。
『点火まで五秒。四、三、二、一』
稲葉の冷徹な計時が零を刻んだ。
『発進』
電磁射出機が閃光を放ち、臨界出力を解放した。
猛烈な重力加速度が四人の体を座席深部へ押し潰す。
母機【NX零二】は地底の闇を突き破り、閃光の矢となって坑道を駆け上がった。
成増の割れた空へ、機体が飛び出す。
眼下に小さくなる瓦礫の街。
青白い炎を噴射口から轟かせ、母機は音速を突破して南の空へと針路を取った。
雲海を裂いて飛翔すること三十分。
母機は太平洋マリアナ海溝の上空へと到達した。
風防の向こうに広がっていたのは、海ではなく、白く凍りついた死の荒野だった。
波頭の形のまま硬直した白い結晶群が、太陽の光を浴びて不気味に輝いている。
圧壊した巨大軍艦の残骸が散らばる中心、底知れぬ深海陥没孔の真上に、それは浮かんでいた。
巨大な正二十面体の敵性多面体。
黒曜石の表皮を漆黒に輝かせ、内部から脈打つ赤い光を放ちながら、ゆっくりと自転している。
その回転とともに、空間が歪み、白い結晶の波紋が海を呑み込み続けていた。
「あれが、海を殺した化け物か」
多朗が操縦桿を握り直した。
剛田が両腕の固定具を軋ませ、布巾の巻かれた桿を力任せに引き寄せる。
「成増の街を壊した奴らと同じだ。絶対に許さねえ。叩き割ってやる」
「敵性多面体、生体反応を検知。来ます」
相羽の鋭い警告と同時に、敵性多面体の表面が無数の閃光を放った。
空を覆い尽くすほどの幾何学的結晶弾が、母機【NX零二】を目がけて一斉に撃ち出された。
「耐圧姿勢。突撃する」
多朗の思考と同期した母機が急激に機首を下げ、白く凍った海へ向けて急降下を開始した。
海と空の境界が消えた極限の戦場で、最初の銃火が切って落とされた。




