生徒手帳を返した日
昨夜、潜入した中国北朝鮮の工作員を捕らえた緊張が冷めやらぬまま、成増基地の旧講堂には重苦しい冷気が立ち込めていた。
頭上の窓から差し込む光は、紫紺に濁った空の裂け目と極光に染まり、かつての朝の眩しさはどこにもなかった。壇上に立っていたのは、教員の背広を脱ぎ捨て、濃緑色の防衛軍野戦服に身を包んだカズとキヨシであった。
壇上の中央には、二つの大きな木箱が無造作に置かれていた。
「これより、都立成増航空高等学校の解体式を執り行う」
カズの野太い声が、冷たい講堂の隅々まで響き渡った。
「全員、手持ちの生徒手帳、ならびに通学定期券を箱へ供出せよ」
講堂を埋めた生徒たちから、声は上がらなかった。誰もが唇を噛み締め、静かに列を作って壇上へ進んだ。
手垢のついた緑色の生徒手帳。成増駅や光が丘駅の改札を通るために使っていたプラスチックの定期券。昨日まで自分たちが普通の高校生であり、親や教師に守られるべき子供であった証が、ことりと乾いた音を立てて木箱の底へ吸い込まれていく。
剛田猛の番が回ってきた。
剛田の両腕には、激闘と瓦礫掘りで痛めた筋肉を締め上げる金属固定具が痛々しく光っていた。胸のポケットには、赤塚新町の定食屋さわやの瓦礫から見つかった、きく子ばあちゃんの秘伝の帳面が大切に収められている。
剛田は血の滲む指先で生徒手帳を木箱へ叩き落とした。奥歯を強く噛み締め、俯いた肩が小さく震えていた。
箱の脇に立ったキヨシが、生徒手帳と引き換えに、冷たく光る小判型の金属札と布切れを手渡した。
個人の識別番号と血液型が刻まれた認識票。そして、【世界連合特務中枢迎撃大隊】の文字と白銀の鷲が刺繍された腕章であった。
「剛田、腕の具合はどうだ」
キヨシの問いに、剛田は首から下げた認識票をぎゅっと握りしめた。
「痛くなんざありません。俺は、もう迷わねえ。この街と仲間を守るためなら、喜んで兵隊になってやりますよ」
その声には、祖母を失った絶望を乗り越えた、固い決意が宿っていた。
多朗も壇上へ進み出た。
ポケットから取り出した生徒手帳を静かに木箱へ納め、認識票と腕章を受け取った。多朗はカズとキヨシの正面に立ち、背筋を正して深々と頭を下げた。
「後藤教官、石田教頭。これまで僕たちを生徒として育て、守ってくださり、本当にありがとうございました」
学校という枠組みが砕け散り、軍の最前線部隊へと看板が掛け替えられようとも、自分たちを導いてくれた大人たちへの礼節を欠かすことはない。多朗の澄んだ瞳と真摯な一礼に、カズは口元を歪め、多朗の肩へ無言で拳を押し当てた。
「多朗。もう生徒手帳で守ってやることはできねえ。ここからは、命を預け合う戦友だ」
講堂の壁際では、操縦適性を持たない一般生徒たちの処遇が言い渡されていた。多くの生徒が後方の物資集積所や避難所へ移送される中、一人の少女が受付の長机をバンと叩いた。
琴音であった。
「私を後方へ送らないでください。生活支援班、炊事補給係に志願します」
担当官が困惑した顔を向けたが、琴音は白銀の腕章をひったくり、白い割烹着の袖へ安全ピンで固く留めつけた。
「学校が部隊になろうが、制服が戦闘服になろうが、多朗たちにご飯を食べさせるのは私の役目です。お腹を空かせたまま、あの子たちを飛ばせるわけにはいきません」
琴音の毅然とした瞳に、担当官も圧倒されて頷くしかなかった。
講堂の外の渡り廊下で、琴音は湯気の立つ竹皮の包みを開いた。
「剛田君、多朗、みんな。これ、食べなさい」
差し出されたのは、炊きたての白米で握られた大ぶりの塩結びであった。
剛田が受け取り、大きな口でかじりついた。米の甘みとともに、強い塩の風味が口いっぱいに広がった。
「これ、さわやの塩加減だ」
剛田の目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「うん。きく子ばあちゃんの手帳を見て、その通りに塩を振ったの。絶対に、元気を無くしちゃ駄目だよ」
琴音が微笑み、陣内とみなみにも結び飯を手渡した。
全員が無言で米を噛み締めた。家族を失い、学校を奪われ、世界の存亡を背負わされても、この手作りの温もりがある限り、少年たちの心が凍りつくことはない。
渡り廊下の陰から、古びた『怪奇大全』を抱えた九条が静かに歩み出た。
紫紺の光の下、九条の足元に落ちる影は、やはり一つだけ欠落したままだ。
「生徒手帳を返しちゃったね。もう誰も、子供のふりはできない。大人が作った境界線が消えて、本当の怪異が海からも空からも湧き出してくるよ」
九条の言葉を裏付けるように、基地の地下深くから、緊急招集のけたたましい警笛が鳴り響いた。
宇宙監視中枢からの最優先警報。太平洋マリアナ海溝の深部から、超巨大な敵性多面体が浮上を開始したという知らせであった。
生徒手帳を捨て、首に冷たい認識票をかけた少年たちは今、世界を守るための戦士として走り出した。




