基地に潜り込んだ敵のスパイ
割れた空から冷たい紫紺の光が降り注ぐ中、成増基地の外郭門は雑踏と喧噪に包まれていた。
成増から赤塚新町にかけての大規模な破壊を受け、基地は周辺被災民の臨時救護所を兼ねることとなった。救急車両や救援物資を積んだ大型車がひっきりなしに出入りし、防護服を着た隊員たちが慌ただしく交通整理に追われている。学校から世界連合の迎撃大隊へと急編されたばかりの組織の足元には、否応なく混乱と隙が生じていた。
その混乱の渦中、支援物資搬入の腕章を巻き、荷台から木箱を降ろす一団の中に、鋭い眼光を隠した男が紛れ込んでいた。
男の偽造身分証には、民間救援団体の輸送員と記されていた。だが、作業服の下に着込んだ薄型防弾衣の内側には、超小型の通信機と高感度受像機が隠されていた。
大陸の特務機関、中国北朝鮮が放った深層潜入工作員であった。
男は周囲の警戒網の薄い死角を盗み見ながら、首元の微小送受信器へ向けて唇をかすかに動かした。
「成増基地外郭への侵入に成功。被災民の混乱により、検問は機能低下中。目標の新型母機が眠る地下船渠へ接近を試みる」
雑音混じりの電子音が、男の耳奥で短く応答を返した。
同じ頃、地下の主作戦室では、キヨシが壁面の大型受像盤を睨みつけていた。横には自動小銃を点検し終えたカズが立ち、苦い煙草の煙を吐き出している。
受像盤には、宇宙監視中枢から届いた最優先の暗号電信が赤く点滅していた。多朗の兄である一馬と悠人が、衛星軌道と極東監視網の観測数値を解析して弾き出した緊急報告であった。
「キヨシ、どんな知らせだ」
カズが短く問うと、キヨシは眼鏡の位置を直しながら眉をひそめた。
「成増の上空が割れた余波は、極東だけにとどまらない。太平洋マリアナ海溝の深部だけでなく、大陸奥地の巨大断層帯でも同時に空間の歪曲が観測された。世界中で空間の継ぎ目が外れかかっている」
「世界中が同時に揺らいでるってわけか。いよいよ世界大戦の様相だな」
「それだけじゃない」
キヨシは指先で受像盤の端を叩いた。
「この混乱に乗じ、中国北朝鮮の軍用暗号通信が急増している。奴ら、空の異変を好機と見て、極東防衛の要であるこの成増の技術を盗み出そうと部隊を放った形跡がある」
「火事場泥棒かよ。反吐が出るぜ」
カズが吐き捨てるように言った。
その緊迫した空気の中、地下の第十三通路では、二基の自律型小型無人機が無言の哨戒任務に就いていた。
索敵特化型のロク番と、電子通信妨害を担うニ番であった。
二基の球体機は床面からわずか数十寸の低空を無音で滑空し、通路の隅々へ目に見えない電波索敵網を張り巡らせていた。
突然、ロク番の上部赤外線受光部が微小な点滅を繰り返した。物資搬入路の天井裏を走る配線管の隙間から、ごく微弱な不正電波の発信源を探知したのだ。
ニ番が即座に同期し、受信用アンテナを微細に旋回させた。暗号化された通信周波数を解析し、基地内の正規通信網とは異なる不審な電波束であることを瞬時に特定する。二基の無人機は警報音を鳴らすことなく、沈黙のまま基地保安網へ不正電波の発信位置を伝送し、影のようにその発信源へと追跡を開始した。
一方、地上に残された旧校舎の裏手、崩れかけた渡り廊下の陰に、九条が佇んでいた。
紫紺の光が差し込む足元には、相変わらず一つの影だけが不自然に欠落している。胸には古びた『怪奇大全』をしっかりと抱え、物資集積所の方角を冷ややかに見つめていた。
渡り廊下の脇を、救援物資の木箱を台車に乗せた偽装工作員の男が足早に通り過ぎようとした。男は周囲を警戒しながら、地下昇降口へ通じる鉄扉の鍵穴に視線を走らせている。
「そこ、鍵は開いてないよ」
突然投げかけられた抑揚のない声に、男の身体が強張った。
男は即座に親しげな作業員の笑みを浮かべ、振り返った。
「おや、お嬢ちゃん。こんな危ない場所をうろついてちゃ駄目だよ。ここは関係者以外立ち入り禁止なんだ」
九条は瞬きもせず、男の顔を正面から見据えた。
「前の世界線でも、同じ顔をした人が親切なふりをして入ってきたよ。その人は、地下の機械に細工をして、街ごと吹き飛ばそうとしたんだ」
男の笑顔が凍りついた。作業服の懐へ、右手が素早く滑り込む。
だが、男が武器を引き抜くよりも早く、頭上の通風口から鋭い風切り音が響いた。
無音で滑空してきたロク番とニ番が、男の左右の退路を完全に塞ぐ位置で静止したのだ。二基の機体から放たれた強力な電子妨害波が、男の懐の小型通信機を瞬時に焼き切った。
「くっ」
男が舌打ちし、身構えた瞬間、通路の角から軍靴の足音が響いた。
「動くな。両手を頭の後ろへ組め」
低い銃声のような声とともに現れたのは、自動小銃の銃口を突きつけたカズであった。その背後には、剛田 猛と多朗も並んでいた。
剛田は痛む両腕の金属固定具をきしませ、怒りに燃える瞳で男を睨みつけた。
「てめえ、きく子ばあちゃんや街の連中が死んで、みんなが泣いてる時に、土足で何しに来やがった」
男は逃げ場を失い、青ざめた顔でゆっくりと両手を挙げた。
「敵は空の上だけじゃないってことだ」
多朗が静かに告げた。
割れた空の下、大戦の火種は異次元の脅威だけでなく、人間の愚かな野心からも確実に燃え広がりつつあった。




