婆ちゃん秘伝の味
日が落ちても、成増から赤塚新町にかけての瓦礫の街に静寂が訪れることはなかった。
頭上の空には、巨大な硝子板を叩き割ったような紫紺の裂け目が口を開け、冷たい風とともに異様な燐光が地上へと降り注いでいた。昼間の衝撃で空の蓋が割れた影響は、物理的な破壊だけにとどまらなかった。現世と黄泉の境目が曖昧になり、暗闇のあちこちから、この世のものではない冷気が立ち上っていた。
赤塚新町、都立光が丘高校のほど近く。完全に圧壊した定食屋さわやの跡地を、青白い鬼火のような光が取り囲んでいた。
光の中心に立っていたのは、怪異部隊の頭領、鉄山親分であった。
羽織の裾を夜風にはためかせ、太い煙管から紫色の煙をくゆらせている。その周囲には、異形の風貌をした一家の者たちが抜き身の大太刀や縄を構え、四方へ向けて結界の杭を打ち込んでいた。紫紺の空から落ちてくる邪悪な気配を、親分一家がその身一つで食い止めていた。
「おい、鉄山」
瓦礫を踏み砕き、駆け寄ってきたのはカズとキヨシであった。後ろには作業着のヤイジとヤマさんも続いている。赤塚三中の四人は、防衛軍の野戦服を着ていても、鉄山親分を前にすれば昔馴染みの顔に戻っていた。
「首尾はどうだ。化け物の悪霊どもは防げているのか」
カズの問いに、鉄山親分は煙管の灰を地面へ叩き落とし、鋭い双眸を向けた。
「カズ、大声出すんじゃねえ。赤塚新町中の無念の魂が、このさわやの跡地に集まってきちまってる。きく子のばあちゃんが、生前に街中の連中に飯を食わせて仏のように慕われていた証拠だ。その温かい魂を嗅ぎつけて、割れた空の向こうから餓鬼どもが群がってきやがった。俺たち一家が叩き斬って祓っているが、きりがねえ」
「鉄山、すまねえな」
ヤマさんが煤に汚れた顔を歪めた。
「俺たちが母校の瓦礫や母機の修理に追われている間、裏の泥を全部被ってくれていたんだな」
「馬鹿言え、ヤマ」
鉄山親分が低く笑い、胸板を叩いた。
「俺たち一家は、この成増と赤塚の土の底で生きてきたあやかしだ。街の表をてめえら赤塚三中の悪ガキどもが守るなら、裏の始末を俺たちがつけるのは当然の仁義だ。誰に気兼ねすることもあるかい」
そのやり取りの背後から、足音が近づいた。
多朗、陣内、みなみ、そして琴音に付き添われた剛田であった。
剛田の両腕には、痛々しい金属固定具が嵌められたままだ。昼間にきく子ばあちゃんを奪われた絶望から、その瞳にはまだ光が戻っていなかった。
「親分」
剛田が掠れた声で呼んだ。
鉄山親分は剛田の姿をじっと見つめ、煙管を懐へ収めた。
「猛、よく来たな」
その瞬間、多朗の首筋から首の後ろにかけて埋め込まれた古代生体端子が、突如として金色に強く脈動した。
多朗は息を呑んだ。新宿決戦から続く空間の歪曲と、鉄山親分が張った霊的な結界が、多朗の神経を通じて共鳴を起こしたのだ。多朗の身体から放たれた柔らかな光が、さわやの瓦礫全体をふわりと包み込んだ。
空間の揺らぎが止まり、濁った空気が一瞬だけ澄み渡った。
瓦礫の山の中央、粉々になった暖簾の残骸の横に、薄い光の輪が結ばれた。
「あ」
琴音が小さく声を上げた。
光の輪の奥に、懐かしい姿がおぼろげに浮かび上がっていた。
割烹着を着て、腰を少しかがめ、いつもの優しい笑顔を浮かべた、きく子ばあちゃんの魂であった。
「ばあちゃん」
剛田が目を見開き、一歩を踏み出した。
「ばあちゃん、そこにいるのか。俺だよ、猛だよ」
幻影は言葉を発しなかった。だが、その皺だらけの温かい顔は、泣き腫らした剛田の顔をじっと見つめ、優しく微笑んでいた。そして、足元の瓦礫の隙間を、そっと指差した。
多朗の生体端子の発光が収まるとともに、光の像は夜風に溶けるように消え去った。
「ばあちゃん、行くなよ」
剛田が叫び、崩れかけた木片の前へ膝をついた。
鉄山親分が無言で歩み寄り、きく子ばあちゃんが指差した瓦礫の奥へ、太い腕を差し込んだ。分厚い木材を軽々と持ち上げ、底から一冊の小さな帳面を引き抜いた。
表紙は油と煤で黒ずみ、角が擦り切れていた。
親分は無造作に帳面の煤を払い、剛田の胸元へ突き出した。
「ほらよ、受け取りな」
剛田が震える指で帳面を受け取り、頁を開いた。
そこには、歪んだ大きな文字で、定食屋さわやの秘伝の調理法がびっしりと書き連ねてあった。特製出汁の合わせ方、豚汁の味噌の分量、そして最後の頁には、ひときわ大きな文字で記されていた。
『猛の大好物、鶏の唐揚げの下味。生姜と醤油は多め。怪我をしないように、お腹いっぱい食べさせること』
剛田の名前と、祖母の深い愛情が、泥にまみれた紙の上に生きていた。
「ばあちゃん」
剛田の目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
剛田は帳面を額に押し当て、声を押し殺して震えた。昼間の慟哭とは違っていた。祖母が命の火を燃やして遺してくれた温もりが、冷え切った少年の心の底へ、熱い炎となって流れ込んでいた。
「猛」
鉄山親分が太い手で、剛田の頑丈な肩を強く掴んだ。
「死んだ人間は、生きている奴の腹を満たすことはできねえ。だが、生き残った奴がその味と心を腹に収めて前に進むなら、死んだ仏も浮かばれるってもんだ。この赤塚新町も、成増も、無残にぶっ壊されちまった。だがな、てめえが立ち止まったら、ばあちゃんが愛したこの街の味も魂も、本当に消え失せちまうぞ」
剛田は袖で乱暴に涙を拭った。
顔を上げると、その瞳には力強い光が宿っていた。金属固定具で固められた両拳を、骨がきしむほど強く握りしめる。
「親分、ありがとうございます」
剛田の声は、もう震えていなかった。
「俺、負けねえよ。母機に乗って、空の化け物を一匹残らず叩き潰してやる。この街も、みんなの居場所も、俺のこの腕で絶対に守り抜いて見せる。そしていつか、俺がきく子ばあちゃんの唐揚げを、みんなに作って食わせてやるんだ」
その力強い誓いに、多朗は深く頷いた。琴音も涙を拭い、笑顔を浮かべた。
カズとキヨシが顔を見合わせ、満足そうに鼻を鳴らした。
鉄山親分は豪快に笑い、剛田の背中を平手で叩いた。
「よし、いい面構えだ。空の掃除は任せたぞ、世界連合の若造ども。この街の地べたは、俺たち一家が命を張って守り通してやる」
割れた空の下、生者と死者、人間とあやかしの絆が結ばれた。
大切な人々の魂を背負い、少年たちは再び立ち上がった。世界を覆う大戦の渦へ飛び込むための、確かな覚悟を胸に抱いて。




