砕け散る硝子の空
成増の地底坑道を突き抜けた中枢母機【NX零二】の前に広がっていたのは、見慣れた武蔵野の青空ではなかった。
大気の上層が巨大な透明の板のように凍りつき、濁った紫紺の四角い網目模様が空一面を覆い尽くしていた。その中心、高度3000メートルの虚空に、巨大な十二面体の結晶が、現実の空間を押し潰すように回転している。
「空間密度、計測限界を突破」
副座観測手のみなみが叫んだ。防眩眼鏡の奥の瞳が、激しく点滅する画面の数値を追う。
「あの結晶の塊、武蔵野の断層の上空へ沈み込んでいるわ。このまま地面へ落ちたら、街全体が角ばった結晶の塊に呑み込まれる。射撃の狙い、多朗の神経へ送ったわ」
「操縦桿がまるで巨大な鉄の塊だ。だが、絶対に離さねえぞ」
機体制御手を担う剛田が、金属固定具で固められた両腕で副操縦桿を力づくで引き倒した。強烈な風圧と油圧の反動に腕がきしみ、唇を噛んで血を滲ませながらも、巨鳥の機首を結晶の頂点へ向け続ける。
「電離気体推進器の冷却弁、全開。燃焼室の温度が限界を超えている。持ってあと3分だぞ」
機関制御手の陣内が、包帯を巻かれた右手で緊急燃料弁を押し込み、点検窓の青白い火炎を睨み据えた。配管の側路から高圧気体が吹き出し、床を激しく揺らす。
多朗は主幹操縦桿を握りしめ、首筋から首の後ろに埋め込まれた古代生体端子へ全神経を集中させた。
首筋の皮膚の下で、黄金の光が激しく脈打つ。新宿決戦から続く過負荷により、全身の血管が焼けた針を刺されたように痛んだ。しかし、多朗の意識は澄み切っていた。仲間の命、地底で待つ大人たちの願い、そして日常のすべてを背負い、多朗は六基の無人機へ意思を放った。
「全機、突入。結合部分を砕いてくれ」
多朗の思考を受け、六基の翼が閃光となって散開した。
「多朗、一番脆い角の座標を捉えた。3時方向の角だ」
知性派のニ番が結晶の歪み数値を瞬時に割り出し、各機へ送った。
「ボクの弾丸で吹き飛ばしてやるよ」
火力至上主義のヨン番が急降下し、超小型回転機関砲を乱射した。毎分3000発の特殊弾頭が結晶の角へ吸い込まれ、硬い表面に無数の亀裂を穿つ。
「僕の防護壁で破片を跳ね返す」
ゴ番が多朗の風防の前へ割って入り、飛散する鋭利な破片を青白い電磁壁で弾き飛ばした。
「敵の妨害電波、拙者が完全に遮断仕ったでござる、ご先祖様!」
ロク番が強力な電子妨害波を放射して結晶の増殖を狂わせ、イチ番が牽制の光を放ち、サン番が多朗の首筋へ冷却霧を吹き付け続けた。
研ぎ澄まされた軍事機械の連携が、巨大な十二面体の角を確実に削り取っていく。
「今よ、多朗。空間係留装置を撃ち込んで」
みなみの叫びと同時に、多朗は主操縦桿の起爆突起を押し込んだ。
母機の機首から放たれた鋼鉄の杭が、亀裂の走る結晶の中心部へ深々と突き刺さった。多朗の生体端子から青白い光の奔流が流れ込み、異次元の質量を現世の物理法則で無理やり縛り上げる。
閃光が弾け飛んだ。
巨大な十二面体は内側から破裂し、粉々の塵となって虚空へ消え去っていった。
「やったか」
剛田が荒い息を吐き、叫んだ。
だが、安堵の時間は一秒も続かなかった。
耳を劈く、巨大な硝子が軋むような鋭い音が、空の全体から響き渡った。
多朗は目を見開いた。
新宿の結界が破れ、武蔵野に溜まり続けた空間の歪みは、一個の結晶を砕いた程度では到底止められない限界を超えていた。
空を見上げれば、紫紺の網目模様の隙間から、巨大な亀裂が稲妻のように四方八方へ走り始めていた。
世界を包んでいた空の天井が、耐えきれずに割れていく。
轟音とともに、頭上の空が、まるで巨大な硝子の鏡のように音を立てて無数に砕け散った。
空の殻が剥がれ落ち、割れ目の奥底に広がっていたのは、青空でも宇宙の星々でもなかった。幾重にも重なり合う別次元の暗闇、渦巻く紫色の霧、そして何重もの計算の残骸が漂う、底知れぬ虚無の世界であった。
砕け散った硝子の破片が、白銀と紫紺の極光となって街の全体へ降り注いだ。
地上では、前線の瓦礫に埋もれたザルクスが、青黒い血を流しながら、割れた空を黄金の瞳で見届けていた。旭町社務所では、白銀の髪の少女マナが、縁側に立ち尽くして静かに割れた空を見上げていた。
地底の成増基地では、宇宙監視センターからの主受像盤が、全世界の防衛網の破綻を告げる赤色警報で埋め尽くされていた。
太平洋マリアナ海溝の深海から古代生体兵器の覚醒反応が噴出し、月面の裏側では未知の艦隊が動き出し、巨大な大陸と極東を分かつ大地の裂け目が次々と口を開けていた。空が割れた衝撃は、日本の上空にとどまらず、地球全体を覆っていた空間の壁を連鎖的に破壊していたのである。
「推進器の温度が限界だ。母機を降ろすぞ」
陣内の切迫した声が響き、剛田が震える腕で操縦桿を戻した。
傷だらけの母機は、極光の降り注ぐ紫紺の空を滑空し、成増基地の地下坑道へ向けて緊急降下を開始した。
地下格納庫へ滑り込んだ母機を出迎えたのは、消火器の煙の中で立ち尽くすカズ、キヨシ、ヤイジ、ヤマさん、そして涙を拭って駆け寄る琴音の姿であった。
その暗がりの中、『怪奇大全』を胸に抱いた九条が、欠落した影を揺らしながら、感情のない平坦な声で呟いた。
「世界の天井が、完全に割れちゃったね。箱庭が壊れたんだ。ここからが、私たちの三次元世界そのものをかけた、次元の生存戦争だよ」
一地方の防衛戦は、完全に幕を閉じた。
空が砕け散り、次元の境界が失われたこの星で、成増航空高校は今、三次元物質界の存亡をかけた未曾有の戦乱の中へ飛び込もうとしていた。




