地底を蹴って空へ
複座型中枢母機【NX零二】の操縦区画へ、重油と冷却水の匂いが雪崩れ込んだ。
風防が閉鎖され、外界の喧騒が遮断される。四つの座席に収まった少年たちは、各々の職掌に応じた計器盤へ即座に指を走らせた。高校生が一人で超音速の巨体を操るなどという荒唐無稽は、この機体には存在しない。
主操縦席の多朗は、背嚢へ直結された冷却液の冷気に歯を食いしばりながら、主幹操縦桿に両手を添えた。項の古代生体端子が青白い光を帯び、全身の神経回路が六基の小型無人機、そして機体の空間係留装置へと深々と根を張っていく。航空力学の制御はすべて仲間に預け、多朗はただ、次元の綻びを物質界に繋ぎ止める一点のみに意識を研ぎ澄ませていた。
「高次元位相計算機、同期完了」
副座観測手のみなみが、防眩眼鏡の奥で氷のように冴えた瞳を光らせた。
「武蔵野上空の歪曲率、想定限界の四倍に達しているわ。空間密度が局所的に硬質化し、物理空間の裂け目から巨大な正十二面体の結晶核が質量を降下させている。射撃諸元と突入経路、多朗の脳波受信部へ転送したわ」
「任せとけ。機体がどれだけ軋もうが、操縦桿は絶対に離さねえ」
機体制御手を担う剛田が、金属固定具で強制的に締め上げられた両腕で副操縦桿を握りしめた。腕の筋繊維がきしみ、痛みに奥歯を鳴らしながらも、油圧限界の巨体を力づくでねじ伏せる気迫を漲らせている。
「第二熱交換弁、全開。燃料昇圧完了。電離気体推進器の予熱出力、102%」
機関制御手の陣内が、包帯を巻かれた右手で緊急燃料弁を押し込み、点検窓の青白い燃焼炎を睨み据えた。
「配管の側路は持っても十分だ。それ以上飛べば、推進器ごと溶け落ちるぞ」
機体の周囲には、六基の自律型小型無人機が外部懸架部へ整然と吸着し、あるいは直掩配置についた。
イチ番が前線探査装置を最高感度で駆動させ、ニ番が宇宙監視センターからの暗号回線を暗号解読網に接続する。サン番が多朗の生体数値を観測席のみなみへ送り続け、ヨン番とゴ番が火器と電磁防護壁の蓄電器を限界まで充填した。ロク番が外部の電子妨害を警戒し、探信儀を全周へ走らせる。定型句など一言もなく、研ぎ澄まされた軍事機械としての隊列が完成していた。
同じ刻、旭町社務所の奥深く。
畳の上に端座した白銀の髪の少女マナが、静かにその金色の瞳を見開いた。
新宿決戦において因果律を書き換えた深甚なる反動は、少女の華奢な肉体を激しく苛んでいた。しかし、マナはその痛みを一切表情に出さず、ただ遥かな空の気配を感じ取っていた。その視線の先にあるのは、時間の凍結した未来の玉座ではなく、泥と油にまみれて現世を生きる、始まりの祖先である多朗の魂であった。
その社務所から遠く離れた、武蔵野外郭の前線断層帯。
黒煙と異次元の紫光が立ち込める瓦礫の山に、巨体が沈んでいた。
ザルクスであった。最前線の土嚢の陰で、砕けた鋼鉄板を握りしめていた。
配下の精鋭たる二個部隊が、先刻の急激な結晶化の奔流を浴び、肉体を幾何学多面体へと置換されて全滅した。ザルクス自身も深緑の硬質鱗を半分以上削ぎ落とされ、裂けた胸部から粘調な青黒い体液を地面へ滴らせている。手にした神鉄槍は半ばからへし折れ、荒い呼吸を繰り返すたびに、折れた肋骨が肉を刺した。
同胞を根こそぎ奪われた痛恨と憤怒が、爬虫類の黄金の縦瞳に灼熱の炎となって燃え盛る。
「我が精鋭、二個部隊をことごとく呑み込みおったか。愚劣なる人間どもが穿った穴から、底なしの虚無が雪崩れ込んでくる」
爪が瓦礫を粉砕した。退くことすら許されぬ死線の底で、ザルクスは武蔵野の空を睨み上げた。
「だが、あの痛ましき特異点の少年は、己の骨肉を軋ませてまで、なおこの大地を縫い止めに飛ぶというのか。同胞の屍の山の上から、貴様の足掻き、この眼で見届けてやる」
その怨嗟と覚悟の声を、成増の地下にいる多朗たちが知る由もなかった。情報の非対称性は厳然として保たれ、地上の者たちはただ、己の目の前にある戦火に命を投じていた。
「おい、手動巻き上げ機を引け!」
地下第三格納庫の奥で、ヤイジが怒号を上げた。
中国北朝鮮の工作員によって爆破された第一昇降坑道の主油圧系統は死んでいた。数十トンの装甲天井板を動かすため、ヤマさんが血まみれの肩で大型重機の変速桿を押し込み、ヤイジが鋼鉄の牽引索を滑車に噛ませて力づくで巻き上げる。
軋む鋼鉄の悲鳴とともに、巨大な円形坑道の防護扉が、頭上へ向けてゆっくりと口を開け始めた。
坑道の底から見上げれば、地上数100メートルの開口部の向こうに、夜でも昼でもない、濁った紫紺の光が渦巻いていた。
「カズ、誘導灯を出せ!」
キヨシが壁面の主電源を非常直結に切り替え、叫んだ。
「おうよ! 上宮、剛田、陣内、相羽! 赤塚の空を頼んだぞ!」
カズが両手に握った赤色の誘導灯を頭上へ交差させ、発進の合図を叩きつけた。
「全系統、接続。発進!」
多朗の思考が機体と六基の無人機へ奔流となって注ぎ込まれた。
剛田が操縦桿を力いっぱい引き倒し、陣内が点火開閉器を叩き落とす。
電離気体推進器が轟音を爆発させ、青白い噴流が格納庫の床を灼いた。母機NX零二は強烈な垂直加速度とともに床を蹴り、鋼鉄の昇降坑道の中を一直線に駆け上がった。
猛烈な重圧が四人の身体を座席へ押し潰す。剛田の両腕の外骨格固定具が悲鳴を上げ、陣内の点検窓が火花を散らした。
突風を切り裂き、巨鳥は成増の地上へと突き抜けた。
四人の視界に広がったのは、異様な相転移によって変貌を遂げた武蔵野の空であった。
大気の上層が硝子のように硬質化し、紫紺の幾何学模様が天蓋を覆い尽くしている。その中心、高度三千メートルの虚空に、現実の光を拒絶するように鎮座する巨大な正十二面体の結晶核。
空間そのものが自重に耐えかねて軋みを上げ、今まさに、世界を包む天蓋が崩落の瞬間を迎えようとしていた。




