出撃限界まで7分
敵指揮官の野戦暗号受信機から吐き出された冷徹な音声が途絶えた瞬間、地下第三格納庫の空気が極限まで張り詰めた。
外郭防衛網の損耗率は六割を超過。成層圏外縁の古代天人監視網も、太平洋上の五族協和軍艦隊も、すでに後退を余儀なくされていた。武蔵野上空の希薄媒質層に物質化した巨大正十二面体の結晶核が、地表へ向けて沈降を開始している。
「四の五の言っている暇はねえぞ」
カズが血の気の引いた顔で叫び、自動小銃を床へ投げ捨てた。
「キヨシ、迎撃準備だ。多朗たちを空へ上げるぞ」
「言われるまでもねえよ」
キヨシが歪んだ防弾盾を放り出し、壁面の主制御盤へ駆け寄った。
「ヤイジ、主脚の損傷はどうだ。飛べるか」
「飛ばすんだよ、何が何でもな」
ヤイジが顔の煤を腕で拭い、巨大な万力と油圧溶接器を引っ掴んだ。
「ヤマさん、予備の油圧配管を引き出せ。主脚の油圧系統が吹き飛んでる。直結バイパスを噛ませるぞ」
「了解だ。肩の傷なんぞに構っていられるか」
ヤマさんが負傷した右肩を布で強く縛り上げ、予備部品の鉄箱を力づくでこじ開けた。
赤塚三中の四人に、生徒を制止する迷いや無駄な議論は一秒たりともなかった。命懸けで守り抜いた中枢母機【NX零二】を、今この瞬間に動かせる搭乗員は、多朗たちをおいて他にいない。大人たちの意地は、言葉の引き止めではなく、泥臭い全力の出撃支援となって爆発していた。
格納庫の天井に設置された有線通信機が、耳朶を劈く警報音とともに自動印字を吐き出した。
宇宙監視センターからの最優先暗号電文であった。
『陸上防衛部隊指揮官・上宮一馬、数理中枢研究員・上宮悠人より緊急伝達。武蔵野境界の空間歪曲率、計測限界を突破。局所希薄媒質層の完全硬質化まで、残余時間420秒。7分以内に母機による空間係留を行わぬ場合、練馬および武蔵野の全域が幾何学結晶構造体へと相転移する。成増迎撃大隊、直ちに出撃せよ』
兄たちの電文は、冷徹な数理の宣告であった。残された時間は七分。
「陣内、機関の点火弁を開け。電離気体推進器の予熱を開始するぞ」
ヤイジの怒声を受け、陣内が包帯で固められた右手を庇いながら、母機の側面点検扉へ飛びついた。
「第二熱交換器の冷却配管、直結完了。燃料昇圧ポンプ、始動します」
陣内が手動弁を力づくで回すと、巨体の腹部から甲高い高周波の回転音が立ち上り始めた。
「剛田君、両腕を出しなさい」
医療班の隊員が駆け寄り、剛田の腫れ上がった両前腕へ、金属製の緊急外骨格固定具を急速装着した。高圧空気の力で筋繊維が強制的に締め上げられ、激痛に剛田の顎が跳ね上がる。
「ぐっ、うおおお」
「痛みに耐えろ、剛田君。これで操縦桿を握る力だけは確保できる」
剛田は脂汗を滴らせながら、固定具で締められた鋼鉄のような両拳を握りしめた。
「上等だ。母機がどれだけ暴れようが、力づくでねじ伏せてやる」
医療室から駆けつけた相羽みなみが、携帯情報端末を母機の観測席回路へ接続した。
「高次元位相計算機、同期開始。武蔵野の空間歪曲座標を受信しました。多朗、いつでもいけるわ」
多朗は、自らの足でしっかりと格納庫の鉄板を踏みしめていた。
首筋に埋め込まれた古代生体端子は、今なお火で炙られたような熱を放っている。だが、その背嚢へ、生体支援のサン番が極細の冷却液配管を直接接続していた。
「多朗ちゃん、背面の強制冷却を開始するよ。端子の熱暴走はこれで食い止める」
サン番の処置により、凍るような冷気が多朗の神経系へ浸透し、激痛を麻痺させていく。
多朗は、血と油にまみれて母機を整備するヤイジとヤマさん、通信を統御するキヨシ、そして銃を構えて通路を警戒するカズを見渡し、深く、深く頭を下げた。
「後藤教官、石田教頭、稲葉主任、山口さん。みなさんが命を張って守ってくださったこの機体と、僕たちの命、絶対に無駄にはしません。心から、感謝申し上げます」
極限の出撃直前にあっても、決して傲慢にならず、大人たちの労苦へ至高の敬意を捧げる。その澄み切った瞳と謙虚な礼節に、カズは獰猛な笑みを浮かべて多朗の肩を叩いた。
「余計な気遣いは無用だ、上宮。お前たちが空を守るなら、俺たちはこの地底を守り抜く。生きて帰ってこい」
「多朗」
背後から、震える声が呼んだ。
琴音であった。
琴音は泣いていなかった。奥歯を噛み締め、多朗の飛行服の胸元にある留め金を、両手で力いっぱいきつく締め上げた。そして、竹皮に包まれた塩結びを、多朗の手のひらへ無理やり押し込んだ。
「これ、絶対に全部食べなさい。あんたは私の幼馴染なんだから。帰ってきたら、もっとたくさん握ってあげる。だから、絶対に、絶対に死なないで」
「ありがとう、琴音。必ず帰ってくるよ」
多朗は微笑み、塩結びを口へ運んで噛み締めた。米の甘みと塩の味が、乾いた身体に確かな命の熱を灯す。どんな過酷な超科学の戦場にあっても、この日常の温もりこそが、多朗を現世に繋ぎ止める最大の錨であった。
格納庫の暗がりから、九条が『怪奇大全』を胸に抱えて歩み出た。欠落した影を揺らしながら、感情のない平坦な声で告げる。
「前の世界線では、ここで誰も飛び立てずに街ごと結晶に呑まれたんだよ。でも今回は、大人の鉄工と子供の意志が噛み合っている。運命の歯車が軋んでいるよ。硝子の空を、突き破っておいで」
母機の電離気体推進器が、青白い電磁の光条を噴射孔から吐き出した。
格納庫全体が地震のような唸りを上げ、主昇降坑道の巨大な天井扉が重々しく軋み始める。
出撃限界まで、残り5分。多朗たちは迷いなく、鋼鉄の巨鳥の昇降口へ足をかけた。




