パラレルワールドの綻び
旭町の社務所の最奥、神鏡から放たれていた白銀の光条が静かに収束した。
高次元物理法則の強制執行によって擦り切れかけたマナの肉体は、上宮多朗の生体端子が放つ温かな情動と、超越者たちの術式によって、辛うじて現世の輪郭を繋ぎ止めていた。
だが、静寂を取り戻した広間の空気は、鉛のように重く淀んでいる。
「新宿の中枢結界破断がもたらした負荷は、都心の枠組みを越えて波及している」
校長の生体分身が無機質な声で告げ、畳の上に立体力線図を投影した。
青白く発光する首都圏の地図。新宿を中心として幾重にも張り巡らされていた防護天蓋は、先刻の決戦で生じた相転移の衝撃波により、中心から無残に引き裂かれていた。
「新宿で逃げ場を失った高次元の余剰圧力波が、地下深くの不可視界層、古代の地脈と水脈を伝って北西へ逆流している。武蔵野の断層結節点、清瀬から秋津にかけての境界域へ、逃げ場のない歪みが集中し始めた」
巨躯を屈めて座す超古代の先住知性体、ザルクスが黄金の瞳を細め、喉奥で低く唸った。
その冷徹な視線は、横たわる人間の娘を憐れむでもなく、ただ星の運行を乱す矮小な種族の浅慮を射抜いている。
「目先の都市防衛に狂い、星の自律循環系を自ら損なう。愚鈍な猿どもの築いた結界など、砂の城に過ぎん」
言葉は短く、吐き捨てるようであったが、その威圧感は広間の空気を押し潰すほどに重い。
「文句を垂れるのは後だよ、大蜥蜴の旦那」
あやかしの頭領、応為が煙管から細い煙を吐き出し、畳を指先で軽く叩いた。
「新宿の天蓋が割れたせいで、押し込められていた隠世の気配が、武蔵野の薄い地表へ噴き出そうとしている。あそこは昔から、此岸と彼岸の境目が曖昧な土地だ。一度綻びが広がれば、現世そのものが裏返るよ」
寝台に横たわるマナの額には、まだ薄く冷たい汗が滲んでいる。
多朗は少女の掛け布を整えると、自らの生体端子を鎮め、毅然とした面持ちで校長へ向き直った。
「校長先生、僕たちを武蔵野の境界へ向かわせてください。マナが命がけで守ったこの世界を、地下からの歪みで崩落させるわけにはいきません」
多朗の肩口や背後で浮遊する自律型小型無人機群は、先刻の激戦による熱を帯びたまま、静粛を保っていた。軽口や無駄口を挟む機体は一基もいない。主人の胸中に宿る決意と緊迫感を瞬時に察知し、探知機構の指向角を整え、微弱な同期光を小刻みに明滅させて出撃態勢を整えている。
「成増基地より中枢母機【NX零二】を発進させます」
校長が静かに命を下した。
「マナはこの社務所で保護を継続する。上宮、君たちは武蔵野上空へ急行し、新宿破断の余波による空間崩落の兆候を精密観測しなさい」
「了解しました」
多朗は深く頭を下げ、副座観測手の相羽みなみ、そして今回搭乗する九条とともに社務所を後にした。
複座型中枢母機【NX零二】は成増の地下秘匿発進口を抜け、武蔵野街道の上空へと静粛に浮上した。
夜の帳が下りた練馬から西の空域へと機首を向ける。
操縦桿を握る多朗の隣で、相羽みなみが冷徹な手つきで索敵表示の数値を更新していく。
「上宮くん、新宿方面からの位相圧力波、地下水脈を経由して清瀬および秋津の境目へ到達しているわ」
みなみの硬質な声が機内に響く。感情を排した観測手の響きの中に、机を並べて学んできた者同士の信頼が滲んでいた。
「目に見える巨大結晶の物質化反応はない。でも、大気中の電磁密度が異常に低下している。空間の屈折率が狂い始めているよ」
風防の外、眼下に広がる街並みの夜景は、普段と変わらぬ住宅街の灯りを点しているように見えた。
だが、目を凝らすと、その光景は異様な違和感を放っていた。
街灯の光が濡れた油のように濁って滲み、家々の輪郭が二重三重にブレて震えている。
車輪の走行音や街の生活音が不自然に遮断され、完全な静寂が大気を支配していた。まるで、高密度の物質世界が、薄い膜一枚を隔てて別の界層と重なり合っているかのようだった。
機内後方の座席で、古びた『怪奇大全』を胸に抱きしめた九条が、感情の起伏を削ぎ落とした静かな声で口を開いた。
計器の緑色の光に照らされたその足元には、やはり影が一つ欠けている。
「始まっているよ」
九条の平坦な宣告が、機内の空気を冷たく凍りつかせる。
「新宿の主結界が砕けたことで、失敗作として消去された過去世界線の残骸が、現世の皮膚を食い破ろうとしているんだ」
多朗が前方を見据えたまま問いかけた。
「九条、君には何が見えているんだ」
「滅び去った世界の残滓だよ」
少女は抑揚のない瞳を、窓の外の闇へ向けた。
「私がいた別の時間軸でも、全く同じことが起きた。最初は街の片隅の小さな歪み、音の消失、影の消失から始まった。やがて物理法則が相転移を起こして結晶化し、人々の暮らしも、築き上げてきた歴史も、すべてが均一な幾何学多面体へと平坦化されて消え失せた。底に沈められた過去世界線の澱が、新宿の傷口から武蔵野の断層へ吹き溜まっている」
九条の言葉に呼応するかのように、母機の受振器が鋭い警報音を立てた。
計器盤の奥で電磁波を傍受、赤く発光して数値を弾き出した。
武蔵野断層帯の深部、地下数十キロの岩盤から、極大の重力震動が検知されていた。
単なる局所的な歪みではない。極東全域、いや地球規模で連鎖する大規模相転移の前兆波形だった。
表示盤に展開された波形図を見たみなみが、息を呑んだ。
「秋津境界の地下で観測されたこの異常波形、先刻マリアナ海溝の深部、そして月面の裏側で観測された未知の重力振動と、基本周期が寸分違わず一致している」
新宿の決戦は、危機の終わりなどではなかった。
首都中枢の防壁が破断されたことで生じた歪みは、武蔵野の境界を侵食し、やがて世界規模で眠る超古代の生体兵器群、そして多重時間軸そのものを目覚めさせようとしていた。
「世界が、ほどけかけている」
多朗は操縦桿を強く握り直した。
恐怖に呑まれるのではない。この世界の脆さと、そこに生きる無数の命への深い愛おしさが、多朗の胸を満たしていた。
その時、機内の通信表示盤が突如として規定外の極秘周波数を捉え、青白く点滅を始めた。
上宮家の血統にのみ同期する、四重螺旋の暗号配列が展開されようとしていた。




