マナの代償と超越者たち
新宿の死闘から離脱した複座型中枢母機【NX零二】の車載区画は、凍りつくような冷気と異常な電磁の軋みに包まれていた。
簡易寝台に横たえられたマナの身体に、異変が生じていた。
幾何学結晶の異次元存在を素手で両断し、低次元物質界へと強制的に平坦化した代償は、あまりに甚大だった。少女の白い陶器のような肌は、端から希薄なガラスのように透き通り、下にある寝台の布地がぼんやりと透けて見えている。高密度物質界へ彼女を繋ぎ止めていた因果の鎖が、逆流する相転移の波によって激しく解けかけていた。
「多朗ちゃん!駄目、体温が氷点下へ向かって落ち続けている!生姜湯や毛布どころの騒ぎじゃないよ、このままじゃ存在の輪郭そのものが霧散しちゃう!」
小型無人機のサン番が、機体下部の温熱感知光を狂ったように明滅させながら悲痛な警告音を放った。
「ボクの火力が足りなかったせいだ!もっと大口径の電離気体砲を追加装甲して敵の核ごと吹き飛ばしていれば、マナにこんな無茶をさせずに済んだのに!」
ヨン番が推進器を荒々しく吹かし、自らの装甲板を車載隔壁に打ちつけんばかりに悔しさを爆発させる。
「どうせ僕みたいな粗大ゴミが無傷で生き残って、こんな尊い存在が消えかけるんだ。成増の不燃ゴミの日に真っ先に破砕機へ放り込まれるべきは僕だったのさ」
ゴ番が姿勢制御翼を力なく垂らし、床の隅で自嘲の唸り声を漏らす。
「騒ぐなヨン番、ゴ番。取り乱したところで因果率は一ミリも安定しない」
知性派のニ番が低く鋭い電子音で戒め、隣で浮足立っていたロク番の天板を小型作業腕で小突いた。
「多朗、彼女の表皮硬度は今、物理的な定義を失っている。触れる際は力場の急変に最大限警戒せよ。数値の崩落速度から逆算して、あと十五分が限界だ」
「ご先祖様、この波形は拙者の暗号解析でも読み取れぬ超高次元の干渉でござる。現世の通信網では受け止めきれぬ、途方もない負荷が掛かっているでござるよ」
頭を叩かれたロク番が、光学感知器の焦点を細かく伸縮させながら報告した。
「全機、静かにしろ!多朗が一番つらいんだ」
リーダー格のイチ番が甲高い警告音を発して全体を制した。
「社務所まであと三分だ。信じて全神経を接続しろ、多朗!」
多朗は無言のまま、透き通っていくマナの小さな足首に掛けられた保護布を直した。震える指先を握りしめ、ただひたすらに、己の無力さを呪うのではなく、仲間を守るために身を削った少女への祈りと感謝だけを胸の底で燃え立たせていた。
特殊装甲車両は練馬区旭町の、鬱蒼とした木々に囲まれた一角へと滑り込んだ。
表向きは、昭和の面影を色濃く残す古びた神社の社務所。瓦屋根には苔が生し、木造の格子戸が静まり返った住宅街の闇に溶け込んでいる。だが、格子戸を潜り抜けた瞬間、世界の法則そのものが唐突に変質した。
空気の抵抗が消え、光の屈折率がわずかに狂う。
現世の物質空間と、目に見えぬ高次元エーテル界層とが、針の穴を通すような精密さで縫い合わされた重層次元の聖域。
奥の広間には、すでに三つの特異な影が多朗たちを待っていた。
中央に立つのは成増航空高校の校長。未来の演算中枢から送り込まれた生体分身は、寸分の乱れもない佇まいで、冷徹な機械のように状況を俯瞰していた。
その背後、薄暗がりから姿を現したのは、天井に届かんばかりの威容を誇る超古代の先住知性体、ザルクスであった。
全身を覆う深緑の強靭な鱗、爬虫類特有の縦に裂けた黄金の瞳。古生代よりこの星の深部を守護してきた知性の巨躯が、多朗の腕に抱かれたマナを見下ろし、低く地響きのような唸りを漏らした。
「愚かな猿どもめ」
ザルクスの吐息が、広間の空気を微かに震わせる。
「自らの領分も弁えぬ知恵を弄び、異次元の裂け目を招き、あげくはこの尊き御方を損耗の淵へ追い込むとはな。欲に狂い、大地を削り、空を濁らせる寄生虫ども。やはり地球を人間に任せておくわけにはいかん。貴様らにこの星を統御する資格など毛頭ない」
その剥き出しの敵意と冷厳な審判に対し、多朗は怯むことなく、ただ深々と頭を下げた。
「あなたの仰る通りです。僕たちの力が足りず、マナさんをこんな危険に晒してしまいました。申し訳ありません。ですが、今はどうか、彼女を救う知恵を貸してください」
私心も虚飾もない、魂の底からの礼節と謝罪。
見下ろしていたザルクスの金色の瞳が、驚愕に微かに見開かれた。己の非を認め、他者を敬い、頭を垂れるという行為は、自らを万物の霊長と過信する傲慢な現生人類からは決して見られぬ精神性であったからだ。
「まあ待ちなよ、大蜥蜴の旦那」
紫煙をくゆらせながら、影から歩み出たのは応為であった。
あやかしの頭領たる女は、生と死、物理と怪異の狭間を往来する妖気を纏い、煙管の先で多朗を指した。
「この小僧の魂の色を見な。濁りがない。欲得ずくで動く人間どもとは根の筋が違うよ。あたしたちの理に敬意を払える器だ。無駄口を叩いている暇があるなら、とっとと陣を敷きな」
校長が無機質な声で割って入った。
「論争は不要です。マナの存在確立指数は現在八十二パーセント。現世との干渉係数が完全に消失すれば、彼女の意識は虚数空間へと永久に散逸します。超時空通信回線を開通させます」
社務所の最深部に安置された円形の神鏡が、不意に白銀の輝きを放った。
電気的な発光ではない。神聖なる超知性、オテントサマの直轄演算領域から届く光子情報の奔流であった。
「術式を開始する」
校長が印を結ぶように両手を掲げると、空中に幾何学的な未来超越演算式が浮かび上がった。
同時に、ザルクスが巨躯を沈め、生体発電器官から特殊な荷電場を全開にして放つ。淡い蒼白色の電離力場がマナの身体を包み込み、崩壊しかけた細胞構造を物理的に力づくで押し留める。
「黄泉の風を塞ぐよ。此岸と彼岸の境、八衢の注連縄を張り巡らせる」
応為が煙を吹きかけながら古の言霊を唱え、虚数空間の深淵から伸びてくる見えざる引力を遮断した。
科学の極限と、超古代の生体技術、そして古来の霊性が、寸分の狂いもなく一つの救命術式として合流していく。
だが、それでもマナの輪郭の崩壊は止まらなかった。
「駄目だ、計算が収束しない」
校長の生体分身の眉が、初めて微かに動いた。
「存在確立数値、八十八パーセントで停滞。高次元への物理法則書き換えに対する反作用が強すぎる。こちら側の物質界に彼女を縫い止める、絶対的な因果の錨が存在しない」
ザルクスの鱗が軋み、応為の結界が激しく波打つ。
「これ以上の生体電磁圧入は肉体を破壊する!」
「あたしの呪術でも魂を縛りきれないよ!あの子自身が、この世界に留まる理由を見失いかけている!」
マナの身体が、いよいよ薄く消え入ろうとしたその時であった。
「マナ」
多朗が膝をついた。
誰に命じられたわけでもなかった。数式による計算でも、戦術的な判断でもない。ただ目の前で命を削り、自分たちを守ってくれた少女への純粋な感謝と、その痛みをすべて引き受けたいという無私の思いやりから、多朗は透き通りかけた彼女の冷たい手を、両の手で包み込んだ。
刹那、多朗の全身を貫く古代の血統、生体端子が激しく共鳴した。
眩い閃光が走ったわけではなかった。
ただ、春の陽だまりのような、どこまでも穏やかで温かな波動が、多朗の掌からマナの指先へと流れ込んだ。損得も、支配欲も、保身も一切含まぬ、他者の存在そのものを尊び慈しむ精神の純度。
その波動が浸透した瞬間、停止しかけていたマナの心拍が微かに跳ねた。
ザルクスは息を呑み、その場で凍りついたように多朗を注視した。
「ば、馬鹿な。技術でも、暴力的な出力でもない。この小僧の内に流れる情動が、崩れかけた世界線の摩擦を無効化しているというのか」
オテントサマがなぜ、数ある人類の中からこの平凡に見える少年を特異点として選定したのか。その答えが、そこにあった。知能や計算力が全て機械に代替された極限の時代において、最後に世界を救う鍵は、自己を誇らぬ謙虚さと、万物を敬う礼節の徳性であったのだ。
時を同じくして。
凍結した遥かな未来、無数の滅び去った過去世界線の球体が浮かぶ極点の玉座において。
孤独に座す未来のマナが、閉ざしていた黄金の瞳をゆっくりと開いた。
時間の牢獄を越えて届いた、懐かしく温かな掌の温もり。
「始祖さま」
未来の超越演算を紡ぐ少女の唇から、過去へは決して届かぬはずの呟きが零れ落ち、その頬を一筋の光が伝った。
現世の社務所において、マナの身体から希薄さが消え去っていった。
ガラスのようだった肌は血色を取り戻し、白銀の髪が重力を得て畳の上に柔らかく広がる。存在確立指数は瞬く間に九十九パーセントを超え、完全な安定へと着地した。
少女の長い睫毛が震え、金色の瞳が微かに開かれた。
「た、ろう」
弱々しく、だが確かに、マナの小さな指が多朗の手を握り返した。
「よかった、本当に、本当に、よかった」
多朗は床に額をつけるようにして安堵の息を吐き出した。少女が遠い未来における己の直系の子孫であることなど露ほども知らず、ただ大切な仲間が無事に戻ってきてくれたことへの感謝に、胸を震わせていた。二度と彼女にこんな無茶はさせない、己が盾となって守り抜くと、固く心に誓いながら。
広間を包む重苦しい緊張が解けかけた、まさにその瞬間であった。
床に待機していたロク番の受振器が、耳障りな周波数の警戒音を発した。
同時に、校長の懐の端末が鋭く明滅する。
「ご先祖様!武蔵野の結界境界線より、極めて不吉な暗号波形を受信したでござる!」
ロク番の緊迫した武士口調が静寂を切り裂く。
「新宿で敵の幾何学結晶を破断した余波が地脈を逆流。清瀬から秋津の境目において、空間の相転移障壁に大規模な亀裂が発生中でござる!」
校長が冷徹な表情に戻り、表示盤の数値を睨みつけた。
「タラスの蓋が開きかけています。現世と黄泉の国を隔てる境界の綻び。九条が感知していた多重時間軸の死線が、武蔵野の直下に露出し始めました」
静まり返る社務所の片隅で、同行していた九条の抱える古びた書物『怪奇大全』の頁が、風もないのに乾いた音を立ててひとりでに捲れ始めた。




