地鳴りの刻限
全天周表示板に展開された仮想空間が、静寂を取り戻していた。
三万機の無人機群が一糸乱れぬ幾何学陣形を維持したまま、青白い光芒となって静止している。榊の駆る漆黒の初号機は、逃げ場を完全に塞がれた状態で空中に縫い留められていた。
模擬操縦室を満たすのは、空調装置が吐き出す低い唸り声と、激しい呼吸の音だけだった。
『……』
石田教頭が端末の表示窓を叩いた。だが、画面にはただ黒い空白が広がるのみだった。
マナが端末に触れた瞬間に流し込まれた超越演算は、既存の電子工学の範疇を完全に逸脱していた。解析機は事象を読み取ることすら拒絶され、演算中枢が異常過熱を起こして煙を吐き出している。
初号機の模擬座席から、榊が荒々しく降り立った。
黒い飛行服の胸元は汗と血で濡れ、充血した瞳には剥き出しの殺気と焦燥が渦巻いていた。
榊は多朗の襟首を掴む代わりに、司令卓の傍らに静かに佇むマナを射抜くように睨みつけた。
『上宮』
榊の低く濁った声が、地下空間の壁面を震わせた。
『貴様は、とんでもない化け物を隣に立たせている自覚があるのか』
マナは銀の髪を微かに揺らしただけで、表情を変えなかった。その双眸は澄み渡り、地上の惨禍も人間の激昂も、ただ冷徹に観測する天の瞳そのものだった。
部屋の最奥、湿った影の中にいた九条が、胸に抱いた『怪奇大全』を細い指で強く抱きしめ直した。
九条は一度も瞬きをせず、感情を完全に削ぎ落とした声で、ぽつりと呟いた。
『あの子の足元には、この世界の時間が流れていない』
その言葉の意味を問いただす者は、誰もいなかった。九条の口から漏れる不吉な言葉が、常に現実の暗部を射抜いてきたことを、全員が骨の髄まで知っていた。
その時、要塞の主通信卓に設置された赤色灯が、耳をつんざく警報音とともに激しく明滅した。
市ヶ谷の陸上自衛隊情報本部から、最高優先度を示す暗号回線が強制接続された。
多朗の血統生体鍵が端末に触れた瞬間、回線が開いた。
表示板に映し出されたのは、煤煙と血糊に塗れた地下司令部、そして通信用の端末を握りしめる長男、一馬の険しい横顔だった。
『多朗、聞こえるか』
一馬の研ぎ澄まされた声には、一切の虚飾がなかった。
『赤坂の防衛線が決壊した。日枝神社の直下に敷設されていた古代結界防護壁が、地下断層の激しい重力波によって内側から圧搾破砕された。官邸地下および地下鉄連絡網から、第三種空間侵食体が地上へ溢れ出している』
多朗の背筋に冷たい刃が突き立てられた。
九条の不吉な予言と、次男の悠人が送ってきた数式暗号の座標が、最悪の形で現実となっていた。
『兄貴、赤坂の地上部隊は』
多朗が問い返すと、一馬は唇を噛み締め、表示板の脇を指し示した。
通信画面の分割窓に、赤坂見附周辺の生々しい衛星走査映像が投影された。
黒い触手のような重力異常が国会議事堂の方向へ伸び、装甲車が玩具のように吹き飛ばされている。その瓦礫の山に布陣し、必死に小銃と対戦車誘導弾を撃ち込んでいる部隊の識別符号が、多朗の網膜を灼いた。
防衛大学校の制服に簡易防弾衣を重ね着した学生混成実戦大隊。
その最前線で泥を啜りながら部隊を叱咤しているのは、三男の海斗だった。
『通常弾頭が一切通用していない』
一馬が冷徹に告げた。
『海斗たちが所属する実戦部隊が肉の盾となって食い止めているが、損耗率はすでに四割を超えた。あと三十分で、港区から千代田区にかけての全防衛網が沈黙する。残された手は、貴様らの生体迎撃機による中枢核の直撃粉砕のみだ』
通信が一方的に途絶した。
多朗は奥歯が軋むほど噛み締め、火傷の残る右拳を硬く握りしめた。
兄たちが命を削り、泥に塗れて戦線を支えている。自分だけがこの地下で、安全な観客でいられるはずがなかった。
『全員、出撃艤装を急げ』
後藤先生の怒号が地下大空洞に響き渡った。
生徒たちは第二格納渠へと駆け込んだ。
艤装が進む地下第二格納渠。
待機台の上から、甲高い回転音が群れを成して多朗の周囲へ飛び跳ねてきた。
多朗の右手が放つ微弱な青い光に反応し、手のひらサイズの六基の小型機が、翅を震わせて多朗の周囲へ群がってきた。
『ご先祖様、拙者が地下から豪快に掠め取ってきた特殊信管、二番機と弐号機の弾倉へ仕込んでおいたでござる』
オタク属性のロク番が、機体を左右に揺らしながら電子声をひそめて叫び、多朗の肩へ飛び乗った。
『ボクの骨格に、ヨン番機と弐号機へ大口径荷電粒子砲を追加装甲してくれなきゃ、次の戦闘で撃ち落とされるぞ』
脳筋のヨン番が、四條が無言で火薬を組み付けている主翼火器の傍らで主張すれば、知性派のニ番が小さな脚でロク番の回転翼を突いて制した。ニ番は多朗の目の前まで浮上すると、小さなレンズを明滅させながら、一馬の情報、悠人の数式、海斗が地上で特定した急所の座標を重ね合わせた解析記録を弐号機の演算系へ転送した。
『多朗、状況は極めて深刻だ。彼らが体を張って炙り出した敵の急所を、君の生体波形で中枢へ叩き込む』
『おいおい、まじかよ。琴音ちゃんの風速を測定して遊んでる場合じゃなくなったぞ』
指揮役のイチ番がお調子者らしく旋回しながら騒ぎ立てる中、ネガティブなゴ番が部屋の隅の屑籠の上へ着地して呟いた。
『どうせ僕なんて、成増の不燃ごみの日にお払い箱さ』
そこへ、淡い桃色の光を放つサン番が、他の機体をいさめるように多朗の頬へ擦り寄ってきた。
『はいはい、夜遅くに騒ぐと多朗ちゃんの栄養バランスが崩れてお肌に悪いですからね。手首の火傷、ちゃんと冷やしましたか。水筒に熱い生姜湯を詰めて操縦席の脇に固定しておきましたからね。激しい運動の後は必ず一口飲んでください』
お母さん属性全開で小言を連発するサン番の受感部を、多朗は苦笑しながら指先でそっと撫でた。
『分かっている。ありがとう、サン番。みんなも頼りにしてる』
出撃直前、多朗が天蓋を閉めようとしたその瞬間、白銀の髪を翻してマナが昇降台へ歩み寄ってきた。
マナは無言のまま、多朗の火傷が残る右手を両手でそっと包み込んだ。
氷のように冷たい感触の奥から、未知の奔流が多朗の神経網へ直接染み渡ってきた。
頭蓋の痛みがすっと引き、右手の青い血脈が澄んだ光へと変わっていく。
『多朗さん』
マナの透き通るような声が、胸の奥深くに響いた。
『この夜の戦火を越えなければ、オテントサマの計算式は更新されず、この世界は初期化されます。あなたの血潮に刻まれた記憶を信じてください。わたしは常に、あなたの観測点にいます』
マナが手を離すと同時に、操縦席の天蓋が激しい密閉音とともに降りた。
六基の小型無人機も多朗の操縦盤へ有線接続され、弐号機の演算系と完全に同期した。
地下大要塞の全域に、空襲警報の無機質なサイレンが鳴り響いた。
成増飛行場の地下を貫く巨大射出坑道。
左右の射出台に、漆黒の前進翼機が並び立った。
左側に榊と鳴海が乗り込む初号機、NX零一。
右側に多朗たち全員の生体を直結した中枢母機、NX零二。
両機の双発推進器から、青白いプラズマの火花が激しく吹き上がり、坑道の側壁を焼き焦がした。
『射出機、最終圧力充填完了。防護扉、開放』
石田教頭の冷徹な声が通信網を走る。
頭上の巨大な鋼鉄扉が裂け、遠い夜空の赤黒い暗雲が顔を覗かせた。
『成増航空隊、全機発進せよ』
後藤先生の下命が轟いた。
爆発的な加速衝撃が多朗の全身を座席へ押し付けた。
双発の青い光粒子が闇を引き裂き、黒鉄の怪鳥二機が、地鳴りの轟く赤坂の空へ向けて一気に撃ち出された。




