黒鉄の棺
成増航空高校の窓枠には、無骨な鋼鉄の防爆板が隙間なく太い金具で留められていた。
隙間から覗く赤塚新町の一帯は、わずか数日で街としての輪郭を完全に喪失していた。
アスファルトは幾重にも裂けて逆立ち、押し潰された乗用車が折り重なり、崩落した建材と鉄骨の残骸から黒煙が立ちのぼっている。立ち入りを禁じる赤塗りの標識が瓦礫の山に突き刺さり、かつての穏やかな住宅街の面影は微塵も残されていない。
そして、破壊された街並みの頭上、重く垂れ込めた天蓋を穿つようにして、白く巨大な歪みの渦が口を開いていた。
渦巻く白光は不気味な無音のまま、地上へ向けて絶え間ない重力波を照射し続けている。
購買部など疾うの昔に閉鎖されていた。
教室の隅に積まれた木箱から生徒たちへ配給されたのは、防衛省の備蓄品である乾いた圧縮糧食と、銀色の包みに収められた生体活性剤の小瓶だけだった。
『食っておけ、多朗。腹が減っては質量も乗らねえ』
剛田が、焼け焦げた板のような分厚い塊を奥歯で噛み砕いた。昨夜の激闘で右腕の表皮を焼かれた巨漢は、剥き出しの筋肉を包帯で無造作に縛り、脂汗を滴らせながら咀嚼している。
グラウンドには、第一普通科連隊の残存装甲車や五族協和軍の工作重機がひしめいていた。担架で運ばれていく負傷兵の低い呻き声と、空気中に噴霧される刺激の強い除染液の異臭が、校舎の廊下を重く満たしている。
ここはもはや学び舎ではない。帝都防衛の最前線に急造された、泥塗れの野戦拠点だった。
『新宿の断層数値、さらに悪化しているわ』
相羽が埃に塗れた机の上で、薄型情報板の画面を指先で弾いた。
『光が丘と赤塚新町を蹂躙した次元の歪みは、地下水脈を伝って南下している。大本営の発表では事態鎮圧となっているけれど、この渦の拡大速度を計算すれば、あと半日と持たない』
『僕たちの生体固定杭でも、次は抑えきれないかもしれない』
陣内が青ざめた顔で計算結果を凝視し、琴音は祈るように胸の前で両手を組んでいた。
多朗は無言で生体活性剤の苦い液体を喉へ流し込んだ。
舌が痺れるような感覚とともに、手首の火傷痕が熱を帯びて疼く。
傍らに立つマナは、窓の外で蠢く白い渦を、氷のように澄んだ瞳で見つめていた。その表情には動揺の色すらなく、ただ静かに、必然の推移を検分しているかのような冷徹さが宿っていた。
放課後を告げる機械的な点呼が終わると同時に、後藤教官が教室の防護扉を蹴破るように開けた。
『全員、地下へ降りろ。石田が準備を完了させた』
後藤教官の戦闘服には、真新しい煤と油の臭いが染み付いていた。
校舎の最深部、旧成増飛行場の地下空洞を拡張して築かれた巨大空洞へと、油圧の昇降機が重い振動を立てて降下していく。
地下四十メートル。
鋼鉄の隔壁が開いた瞬間、氷点下近い冷気と、高圧電流が放つ青い放電の匂いが鼻腔を刺した。
野球場が丸ごと収まるほどの広大な地下格納渠。
その中央に、漆黒の怪鳥が据えられていた。
試作高高度局地迎撃機、NX零一。
前進翼の鋭利な切っ先が、冷たい照明を浴びて青白く反射している。通常の戦闘機にあるべき翼下の武装架座はなく、機体の外殻全体に、古代の呪術文様を思わせる銀色の発光回路が毛細血管のように張り巡らされていた。
『これが、絶対に墜落しない戦闘機か』
剛田が息を呑む。
その時、操縦席の天蓋が激しい作動音とともに跳ね上がった。
内部から吐き出されるようにして、ひとりの男が昇降階段へ転がり出た。
榊先輩だった。
黒い特務飛行服の胸元ははだけ、青白い肌には無数の生体電極が直接縫い付けられている。両方の鼻孔から垂れた鮮血が唇を赤く染め、顎先から鋼鉄の床へと滴り落ちていた。
『きよし、接続時間はどうだった』
後藤教官が歩み寄る。白衣の石田教官が端末の数値を冷徹に読み上げた。
『三分四十秒。神経伝達系の負荷が限界値を突破した。これ以上の同調は脳幹の組織崩壊を招く』
『ちっ、情けない数値を晒すな』
榊は床に血痰を吐き捨て、震える足で立ち上がった。
充血し、瞳孔の開いた狂気的な瞳が、歩み寄る多朗の姿を捉えた。
榊の口元が、残忍な三日月形に歪む。
『おい、上宮。朝霞の生温かい台所で飯を作ってきた甘いガキが、何の用だ。この黒鉄の棺桶に、貴様のような生半可な命が乗れるとでも思っているのか』
『榊先輩、その体でまだ飛ぶつもりですか』
多朗が射抜くように見つめ返すと、榊は荒い呼気とともに笑い声を上げた。
『飛ぶさ。俺たちの血は、そのためにここへ集められた。この機体は機械じゃない。搭乗員の神経と魂を燃料にして次元を切り裂く、化け物の胃袋だ。一度繋がれれば、骨の髄まで吸い尽くされるぞ』
榊の言葉は嘲笑であり、同時に抗いようのない宿命の宣告だった。
『上宮、搭乗しろ』
後藤教官の容赦のない命令が地下空間に響いた。
『後藤教官、まだ多朗の生体数値は安定していません』
相羽が前に進み出ようとしたが、後藤教官の冷たい眼光がそれを遮った。
『新宿の断層崩壊まで時間がない。榊の予備はお前たちしかいないのだ。死にたくなければ機体をねじ伏せろ』
多朗は制服の上着を脱ぎ捨て、昇降階段を登った。
黒い外殻に触れた瞬間、指先から冷気ではなく、心臓の鼓動に似た微弱な脈動が伝わってきた。生きた巨大な獣の背に触れているような錯覚。
狭隘な操縦席に身を滑り込ませると、石田教官の手によって、頸椎と背骨の基部に分厚い金属端子が直接押し当てられた。
皮膚を貫く針の鋭い痛みに、多朗の顎が跳ね上がる。
『神経同調開始。生体電流、注入』
石田教官の冷徹な宣告とともに、世界が反転した。
激痛が脊髄を駆け上がり、頭蓋の裏側で火花が炸裂した。
『う、あああああっ』
視界が白濁し、機体外殻の銀色回路が一斉に青黒く脈動を始めた。
多朗の脳内に直接、成増の地表、赤塚新町の焦土、そして光が丘の地下深くに眠る亀裂の激しい軋みが奔流となって雪崩れ込んできた。
大地が悲鳴を上げている。
空間そのものが引き裂かれ、異界の汚泥が東京の心臓部へ向けて侵入していく生々しい感覚。
意識の深淵で、巨大な超知性オテントサマの計算残響が、無機質な波となって多朗の自我を押し流そうとする。
(飲まれるな、オレはまだ、ここで終わるわけにはいかない)
多朗の体内を巡る古代ハプロ遺伝子が、青い拒絶の光となって火花を散らした。
操縦席の計器盤が過負荷の警報を激しく鳴らし、血の混じった涙が多朗の頬を伝い落ちる。
その激痛の嵐の向こう、地上で多朗を見守るマナの瞳が、青黒く発光する機体を見つめていた。
その眼差しに宿る感情の正体を、知る者は誰もいなかった。




