第二部 胎動編 断層の軋み
午前五時三十分。東武東上線の朝霞駅を望む街並みは、湿った濃紺の闇に沈んでいた。
上宮家の台所に、油の爆ぜる鋭い音が小さく響く。
鉄鍋の底で薄切りにした豚肉と刻み玉葱が縮み、焦げ目を帯びていく。多朗は酒と醤油、すり下ろした生姜を合わせたたれを素早く回し入れた。濃密な湯気が立ちのぼり、換気扇の吸気口へと吸い込まれていく。
傍らの卓上には、山盛りの白飯と豆腐の味噌汁、そして念入りにかき混ぜた納豆の小鉢が並んでいた。
多朗は箸を置き、自身の左手首に巻かれた伸縮包帯を静かに押さえた。
光が丘の地下深く、旧陸軍の防空要塞跡で第二種侵食核を穿った際に負った熱傷の痕跡だ。皮膚科の軟膏を塗り重ねても、赤黒く爛れた皮膚は引き攣り、骨の芯には鉛を流し込まれたような重い痛みが残っている。
玄関の鍵が擦れる重い金属音がして、外気が流れ込んできた。
廊下を進んできたのは、背広姿の長男、一馬だった。市ヶ谷の防衛省情報本部で連夜の暗号解読と情勢分析に追われ、仮眠のためだけに戻った兄の顔には、死人のような土色が張り付いていた。
『飯、できてるよ〜。肉と玉葱の生姜焼き。納豆もある』
多朗が茶碗を並べると、一馬は無言で卓の前に腰を下ろした。緩めた襟帯を首から外し、湯気の立つ肉を箸でつまむ。
だが、その箸は口元へ運ばれる直前で止まった。
一馬の視線が、多朗の左手首の包帯に縫い付けられていた。
激務で赤く充血した兄の瞳が、激しく揺れた。
『多朗』
低く、掠れた声だった。
一馬は箸を卓上に置き、両手を膝に揃えると、高校生の弟に向かって深々と頭を下げた。
『すまなかった。本当に、すまなかった』
『一馬兄貴、よせよ。頭を上げてくれ』
『軍事衛星も、護衛艦も、市ヶ谷が誇る電子防衛網も、何一つ役に立たなかった』
一馬は頭を垂れたまま、拳を固く握りしめた。爪が手のひらに食い込み、微かに白く濁る。
『米軍の部隊も、欧州の統合軍も連日壊滅的な打撃を受けている。光が丘に展開した自衛隊の普通科連隊も、地下から噴出した歪みに触れただけで、小銃を握ったまま肉体を蒸発させられた。正規軍の戦力はすでに大敗北を喫している。国を守るはずの大人たちが無力なまま震え上がり、多朗ら子供の特異遺伝子に頼らなければ東京一つ防衛できない。情けない。兄として、情報将校として、合わせる顔がない』
『オレは自分で引き受けたんだ。兄貴たちが悪いわけじゃない』
多朗が低く答えると、一馬は顔を上げ、黒革の鞄から薄型の情報端末を取り出した。厳重な二重生体認証を経て開かれた画面には、市ヶ谷の極秘回線から直接抽出された生々しい数値群が明滅していた。
『大本営と官邸は、光が丘の事態を地下ガス爆発事故として完全隠蔽した。だが地下では何も終わっていない。新宿駅東口の地下街、そして赤坂の首相官邸直下から、規格外の重力波と異常磁場が観測された。断層の亀裂は連鎖している。市ヶ谷の分析班は、第二波の侵食発生確率を七十二時間以内に九十パーセント以上と試算した』
一馬は端末の画面を消し、多朗の目を正面から射抜いた。
『軍の情報本部は多朗ら成増の特殊生徒を、使い捨ての生体固定具として見ている。だが多朗、死ぬな。必ず生きて帰れ』
兄の言葉は重く、冷たい朝の空気に沈んでいった。
午前七時十分。
朝霞駅から乗り込んだ東武東上線の車両は、通勤客の押し殺した体温で淀んでいた。
和光市を越え、成増駅のホームに降り立つと、初秋の風の中に異質な鉄錆の匂いが混じっていた。ふと見上げた灰色の空の境界に、肉眼では捉えきれない微細な走査線の乱れが走る。
改札口を出た柱の陰で、銀白色の髪を揺らす少女が待っていた。
成増航空高校の紺の制服を凛と着こなしたマナだった。
『おはようございます、多朗さん』
涼やかな鈴の鳴るような声だった。
だがその瞳の奥には、いつも底の知れない静けさが漂っている。
『左手首の傷、まだ熱を持っていますね。旭町の湧水と薬草から精製した煎じ薬を瓶に詰めてきました。痛む前に飲んでください』
差し出された小さな瓶を、多朗は受け取った。
『いつも悪いな。剛田のやつには渡したのか』
『剛田さんには、骨の軋みを抑える湿布を昨夜のうちに託しました』
マナは小さく微笑み、多朗のすぐ隣に寄り添って歩き出した。
多朗はその横顔に、かすかな違和感を拭えずにいた。旭町の社務所に突然現れ、地底のザルクスや白金校長でさえ特別視するこの少女。同級生として同じ教室にいながら、時折見せるその視線は、まるで何十年も遠い場所から多朗たちの歩みを冷徹に観察しているかのような、底知れぬ深さを宿していた。
成増航空高校の校舎は、川越街道の騒音を背に受け、冷厳な防壁のように佇んでいた。
一般生徒が向かう昇降口を素通りし、ふたりは外階段から地階の重防護区画へと降りた。
厚さ三十センチの特殊鋼板扉を開くと、青白い低圧灯に照らされた地下測定室が広がっていた。
すでに部屋の中央では、首に分厚い布を巻いた剛田が、備え付けの鋼鉄机に腰掛けていた。売店で調達した巨大な調理パンを太い指で引きちぎり、口へ押し込んでいる。
『よう、多朗。朝霞の兄貴たちから何か拾えたか』
『一馬兄貴から聞いた。新宿と赤坂の地下換気口で、異常な重力波が噴出してる。軍の正規部隊は大敗北の連続で、もう通常兵器じゃ時間を稼ぐことすらできないらしい』
『知ってるぜ。今朝、地下鉄の駅からも、床下から豚の首を絞めたような嫌な軋み音が響いてやがった』
剛田が吐き捨てるように言った。
机の端では、相羽が冷徹な表情で防衛地図の写しに鉛筆を走らせていた。その横で、陣内が小型端末の計算結果を凝視し、琴音が蒼白な顔で指先を組んでいる。
『光が丘の侵食核を固定したことで、地殻の歪みが逃げ場を失ったのよ』
相羽が鋭い眼差しを多朗に向けた。
『都心の断層沿いに走るエネルギーは、次の出口を探してる。新宿と赤坂が同時に抜かれたら、首都圏中枢は半日で異界の泥沼に呑まれるわ』
その時、密閉扉が重苦しい油圧音を立てて開いた。
濃紺の飛行服に身を包んだ後藤教官と、白衣を着崩した石田教官が入室してきた。
その後ろから、影のように続いたのは迷彩柄の防弾上着を纏った巨躯だった。青黒く鱗立った皮膚、鋭利な爪、そして金色の縦裂の瞳。地底から人類防衛に合流した五族協和軍のザルクス隊長だった。
『全員、席に着け』
後藤教官の鋼のように硬い声が室内に響いた。
『光が丘の防衛戦における貴様らの働きは、大本営と内閣官房の査問会で完全に黙殺された。官僚どもは前線の敗色を隠蔽し、予算と防衛権限の綱引きに狂奔している。防衛省主流派は五族協和軍への超常兵器予算を削減し、時代遅れの通常火器枠へ横流ししようと工作を始めた』
『トカゲの旦那、軍の上層部はまだそんな下らない小競り合いをやってるのかよ』
剛田が吐き捨てると、ザルクス隊長は喉を低く鳴らして冷笑を浮かべた。
『人間の本質よ。足元の地盤が崩落しかけているというのに、沈みゆく船の船長席を奪い合っている。地球を、人間に任せるな。我ら同盟種族が血を流す価値があるのか、疑問に思う瞬間だ』
部屋の空気が重く凍りついた。
石田教官が無言のまま、壁面の大型表示板に首都圏の地質構造図を投影した。練馬区光が丘を中心として、深紅の亀裂が血管のように南へ延びている。池袋、新宿、赤坂を貫き、東京湾の人工島セクターへと深く突き刺さっていた。
『事態はすでに政治家の思惑を越えている』
石田教官が淡々と告げた。
『断層の軋みは限界点に達した。正規軍の火力を結集しても、奴らの質量と次元歪曲には傷一つ付けられない。もはや地上の戦力で侵食を食い止める手段は残されていない』
『だからこそ、成増の地下で眠らせていた機動兵器を前倒しで実戦投入する』
後藤教官が操作卓を叩いた。
表示板が切り替わり、漆黒の機影が投射された。
極端な前進翼と異形の推進器。機体表面には、古代の呪術文様に似た銀色の発光回路が複雑に張り巡らされている。
『試作高高度局地迎撃機、NX零一。絶対に墜落しない航空機として設計された、我らの最後の杭だ。だが、この機体の神経接続機構は、通常の人間の脳波を受け付けない』
後藤教官の冷たい眼光が、多朗、そして相羽を射抜いた。
『機体と神経を直結し、次元の裂け目を上空から直接穿つことができるのは、古代ハプロ遺伝子を宿す貴様らだけだ。榊がすでに三次適合試験に入り、限界域まで意識を同調させている』
榊先輩。
その名を聞いた瞬間、多朗の背筋に冷たい電流が走った。
誰よりも冷酷に空を飛び、己の肉体も命もただの道具として投げ出すあの先輩が、すでに機体の生贄として接続されている。
『放課後、貴様らも地下格納庫へ降りてもらう。神経適合試験を実施する。拒否権はない』
後藤教官の宣告が、冷たい地下室に鈍く木霊した。
昼休み。
屋上の金網に背を預け、多朗は購買の乾パンを口に運ぶこともなく、遠く南の空を見つめていた。
成増の校舎から見える新宿の高層ビル群は、初秋の陽光を浴びて静止しているように見える。だが、あの地下深くで、巨大な亀裂が確実に東京の心臓部を締め上げている。
足音がして、マナが隣に立った。
秋の風が彼女の銀髪をふわりと持ち上げる。
『多朗さん。生姜焼き、お兄様は喜んでくれましたか』
『ああ。全部食ってくれたよ』
多朗は笑おうとしたが、頬の筋肉が強張っていた。
(オレたちは、いつまでこうしていられるんだろうな)
隣の少女は何も言わず、ただ多朗の傷ついた左手の上に、冷たく透き通るような自分の掌を重ねた。
その手には血の通う人間の温もりが希薄で、まるで凍りついた硝子のようだった。
少女の横顔に過った、痛切なまでの静寂の意味を、多朗はまだ理解することができなかった。
破滅の空が、静かに口を開き始めていた。




