地獄のシャトルランを生き延びた俺たちと、アジフライを愛おしそうに見つめる謎の美少女
三限目のシャトルランで肉体を限界まで痛めつけられ、その這いずるようなコンディションのまま突入した四限目の数学。それが、今日の生徒たちにとっての最大の試練だった。航空学校特有の一コマ九十分という重厚なカリキュラムは、平時の倍以上の重さで少年たちの精神を削っていく。後藤教官による容赦のない黒板への数式ノックは、疲弊しきった脳細胞を確実に破壊していった。
すべての授業が終わり、都立成増航空高等の重い校門をくぐり抜けた瞬間、剛田が文字通り地面に崩れ落ちそうになり、多朗はため息をつきながらその巨体に肩を貸した。
「まじで足が棒。いや、棒っていうか、もう感覚がないわ……おまけに四限の数学のせいで、頭の中まで知恵熱で破裂しそうだ」
「うるさいな、俺だって限界だよ。ほら、足動かせ。置いてくぞ」
ここから目指す赤塚新町エリアの定食屋「さわや」までは、ダラダラ歩いておよそ十七分。普段なら大したことのない距離だが、胃袋も脳も完全に空っぽの今の彼らにとっては、砂漠の中のオアシスを探すような果てしない行軍だった。
すれ違う一般の歩行者たちが、汗だくの制服姿でゾンビのように歩く二人を怪訝そうな目で見ていく。だが、そんな周囲の視線を気にする余裕すら今の二人にはない。ただ、川越街道の排気ガスの匂いが近づいてくることだけが、唯一の救いだった。十七分という時間は、高校生の他愛のない無駄話とお互いへの愚痴だけで、思いのほか泥臭く消費されていく。
やっとの思いで川越街道沿いに出ると、見慣れた「さわや」の藍色の暖簾が目に飛び込んできた。
ガラガラと引き戸を開けた瞬間、店内に充満するラードの香ばしい匂いと、甘辛い醤油の香りが、二人の鼻腔を容赦なく殴りつける。
「おばあちゃん! ちわす! から揚げ定食、ご飯大盛り。いや、特盛で!」
剛田がパイプ椅子を派手に鳴らしながら席につく。
厨房の奥から、白い割烹着を着たおばあちゃんが、いつもの丸い笑顔で顔を出した。
「はいはい、いらっしゃい。今日も随分と汗をかいて、よく歩いてきたねぇ。上宮くんは?」
「俺は生姜焼き定食で。ご飯は普通でお願いします」
多朗が冷水マシンのボタンを押し、冷え切った麦茶を二つのコップに注ぐ。一気に喉へ流し込むと、乾燥しきっていた内臓がジリジリと悲鳴を上げて生き返るのが分かった。
ふと店内を見渡すと、入り口側の四人掛けの席には、すでに先着していた相羽みなみと琴音がいた。さらにその少し奥、傾いた西日の当たる窓際の席には、マナがぽつんと座っている。
「あいつら、どんだけ足速いんだよ……」
剛田が恨めしそうに呟いたが、すぐに運ばれてきた特盛のご飯と、大ぶりのから揚げの山を見て目を輝かせた。
「うおォ、これこれ! これのために生きてる!」
剛田が割り箸をパチンと割り、から揚げに猛然と食らいつく。多朗も、タレがこれでもかと絡んだ生姜焼きを口に運んだ。濃いめの塩分と脂が、疲弊した身体にダイレクトに染み渡っていく。
「剛田、あんた店に入ってきた時からそれしか言ってないじゃない。少しは品よく食べなさいよ」
少し離れた席から、相羽が呆れたような声を飛ばしてくる。
「いいだろ別に! 四限の後藤の数学で脳みそまでカラカラなんだ、今だけはガツガツ食わせろ!」
剛田が口いっぱいにご飯を頬張りながら反論する。
琴音はそんな男子たちのやり取りを少し可笑しそうに見つめながら、自分の小鉢のひじきを静かに口へ運んでいた。その視線が、時折、多朗の箸元へ向くのを多朗自身は気づいていない。
多朗は、なんとなく奥の席のマナに目をやった。
マナの前には、小ぶりのアジフライ定食が置かれている。だが、彼女は箸を持ったまま、自分の料理を食べるよりも、店内の賑やかな音や、剛田たちの馬鹿げた掛け合いを、どこか遠い国の祭事でも眺めるような、不思議な目で見つめていた。その瞳はひどく穏やかで、同時に、どこか壊れ物を扱うような切なさが混ざっている。
「マナ、アジフライ冷めるぞ」
多朗が声をかけると、マナはハッと我に返ったように肩を揺らした。
「あ、はい! いただきます」
マナはいつものどこか抜けた笑顔を浮かべると、少しぎこちない手つきで箸を動かし、アジフライの端を小さく口に運んだ。
「……うん。やっぱり、すごく、温かいです」
噛み締めるようにそう呟くマナの横顔に、多朗はほんの一瞬だけ、言葉にできない奇妙な浮世離れした感覚を覚えたが、すぐに剛田が「おい多朗、その生姜焼き一枚くれよ!」と皿に箸を伸ばしてきたため、思考は強制的に遮断された。
「ふざけんな、自分で自分の大盛り食えよ!」
賑やかな放課後の雑音が、油の爆ぜる音と一緒に「さわや」の店内に満ちていく。厨房の奥では、おばあちゃんが使い込まれたフライ返しをリズミカルに動かしていた。




