009 対話
少し長めです。
(……明らかに避けられている。それも、徹底的なまでに)
今日何度目になるかも分からない謝罪の機会を伺っていたが、そのすべてが空振りに終わっていた。
意を決して話しかけようとすれば、彼女は弾かれたように席を立ち、目的があるのかも怪しい足取りでどこかへ消えてしまう。
廊下ですれ違う際も、俺の存在を認識した瞬間に不自然なほど速度を上げ、文字通り風のように通り過ぎていくのだ。
客観的に見れば、これほど明確な拒絶を示されている以上、早々に身を引くのが賢明な判断だろう。
本来の俺であれば、他者のパーソナルスペースを侵してまで理解を得ようとするほど、社交的な情熱は持ち合わせていない。だが、今回ばかりはそうはいかなかった。
陽菜姉から彼女を任されたという責任感も、確かにゼロではない。だがそれ以上に、現状の「不利益」が俺の許容範囲を超えていた。
席が隣という物理的な近さがありながら、まともなコミュニケーションすら成立せず、境界線には永遠に停滞したままの気まずい空気が澱んでいる。
この非効率的で居心地の悪い空間が、理屈抜きに耐え難かったのだ。
発端が俺の失態にある以上、彼女が被害者である事実に疑いようはない。
しかし、謝罪という解決方法すら封殺されてしまっては、この沈痛な冷戦状態を解消する手立てが何一つ見出せなかった。
(くそ……。一体どうしたらいいんだ)
「燈真じゃん。どうしたの、そんなに眉間にシワ寄せて。般若みたいな顔になってるよ?」
不意に上から降ってきた軽薄な声に、思考の糸が強制的に断ち切られる。
顔を上げると、そこには声の主——東雲朱音が、面白がるような笑みを浮かべて立っていた。
「朱音か。……別に何でもない。ただの考え事だ」
「全然『何でもない』顔じゃなかったけどなー。あまりに必死そうだったから、つい声かけちゃった」
朱音は俺の机の角に腰を下ろすと、覗き込むように顔を近づけてくる。
彼女特有の、パーソナルスペースを容易く踏み越えてくる振る舞いに、わずかな気圧されを感じた。
「よかったら、お姉さんに相談してみる? 燈真の足りない頭で考えるより、よっぽど有益な解決策が出ると思うけど」
「お姉さんって……。学年は同じだろ」
「はいはい、わかってるって。でも精神年齢的には、私の方が三つくらい上じゃない?」
朱音はくすくすと笑いながら、俺の反論を適当にいなす。この調子でまともに取り合っていては、余計な労力を消耗するだけだ。俺は内心でため息をつき、視線を再びまっさらとした机の上に戻そうとした。
「でさ、箱入さん——だっけ。いつまでその状況を続けるつもりなの?」
朱音の言葉に、心臓が跳ねる。平静を装って顔を上げたが、彼女の視線はすでに、野次馬の人垣に囲まれた箱入さんの席へと向けられていた。
「なぜ、そこで彼女の名前が出てくる」
「うーんと、繋から話を聞いたからかな」
「繋から?」
「うん。燈真と箱入さんの様子が朝からおかしいって。燈真が話しかけようとすればあからさまに避けられてるし、昨日あんなに親しげに帰ったはずなのに、今日は一言も会話してないとかね」
あいつ、余計なことを……。繋の観察眼が無駄に鋭いせいで、話が変な方向に拡散している。
「なら、残念だがそれとは関係ないな」
「ほんとにー? その割にはさっき、彼女がこっちをチラッと見た時、全力で目を逸らしてなかった?」
「っ……! 見てない、そんな事実はない」
反射的に否定するが、自分の耳が熱くなるのが分かった。朱音はそんな俺の反応を待っていたかのように、満足げに目を細める。
「ふーん。まあ、そういうことにしておいてあげる。でも、そんなに怖い顔で悩んでるなら、本当にお姉さんが一肌脱いであげてもいいんだよ?」
そう言って彼女は、まるで獲物を追い詰める猟師のような、不敵な笑みを浮かべた。
「余計なお世話だ。……第一、お前は繋の彼女だろ。あいつの相手をしてやればいい」
俺が繋の名を出すと、朱音は「繋ならあそこでしょ」と顎で教室の隅を指した。そこでは繋が友人たちと馬鹿話で盛り上がっている。
「繋もあんな感じだし、暇なんだよね。それに、私と箱入さん、実はちょっとだけ話したことあるんだよ。彼女、私の話も面白がって聞いてくれるし」
朱音の言葉を信じるなら、彼女は箱入さんと一定の接点があるということになる。だとすれば、朱音ならあの中に入り込み、俺には不可能な『彼女の現状の観察』ができるかもしれない。
「……何か企んでいるようなら、遠慮しておく」
「ひどいなー、純粋な親切心だよ? 燈真と箱入さんの仲を、私がちょっとだけ『調整』してあげようかなって思って」
朱音は楽しげに目を輝かせた。その「調整」が、俺にとっての平穏を加速させるものなのか、あるいはさらなる混沌を招くものなのか。
「……それで。その『調整』とやらは、具体的に何を企んでいるんだ」
俺が警戒を露わに問いかけると、朱音は「企むだなんて人聞きが悪いなー」と言いながら、楽しげに人垣の方を指差した。
「まあ見ててよ。こういうのは、外側から崩すのが一番なんだから」
朱音はそう言い残すと、俺の机からひらりと飛び降り、迷いのない足取りで箱入さんの周囲を囲む連中の元へと向かっていった。
彼女は持ち前の社交性を遺憾なく発揮し、「ねえねえ、ちょっと箱入さん借りてもいい?」と、厚い人垣を鮮やかに割り込んでいく。
「あ、東雲さん」
「朱音ちゃんだ、やっほー」
繋の彼女として、あるいはその奔放なキャラクターゆえか、他クラスの生徒であるはずの朱音の介入に文句を言う者はいない。
人垣の隙間から、困惑したように瞬きをする箱入さんの姿がようやく視認できた。
朱音は何食わぬ顔で彼女の腕を取ると、そのまま出口の方へと連れ出していく。廊下へ消える間際、朱音が俺に向かって、これ以上なく不吉なウィンクを投げかけてきた。
(……嫌な予感しかしない)
数分後、スマホに朱音から『四階のエレベーター前。すぐ来ないと、昨日のこと全部バラすよ』という、脅迫以外の何物でもないメッセージが届いた。
俺は絶望的な心地で席を立ち、残された人垣をかき分けて、普段は使われない四階のひっそりとした踊り場へと足を運んだ。
階段を駆け上がると、そこには朱音に腕を掴まれ、借りてきた猫のように縮こまっている箱入さんの姿があった。
「はい、主役の登場! ちょうど箱入さんも、燈真に聞きたいことがあったんだって」
「え、あ、あの……東雲さん……っ」
朱音に背中を押され、箱入さんが俺の目の前でたたらを踏む。逃げ場を失った彼女は、俺と目が合った瞬間に肩をビクつかせ、視線を泳がせた。
「さあ、二人とも! ここなら誰も来ないし、昨日の夜、何があったのか『精査』しあおうか。ほら燈真、男なら自分から切り出しなさい!」
朱音は廊下の壁に背を預け、逃げ道を塞ぐように不敵な笑みを浮かべている。人目に付かない静かな空間が、今の俺には逃げ場のない処刑場のように感じられた。
彼女は自分の制服の裾をぎゅっと握りしめ、まるで小刻みに震える小動物のように、俺の視界から逃れようとしている。
(……この状況で沈黙を貫くのは、いい解決策とは言えないな)
俺は覚悟を決め、短く息を吐いた。
「箱入さん」
「……っ、はいっ」
名前を呼んだだけで、彼女は過剰なほどに肩を跳ねさせた。
その怯えたような反応を見るたびに、昨夜の「失態」——彼女の裸を直視してしまった光景が脳裏にフラッシュバックし、胃のあたりが焼けるように熱くなる。
「……まずは、謝らせてくれ。昨日のことは、事故だったとはいえ見てしまった俺が悪い。朝から避けられるのも当然だと思っているし、不快感を抱くのは至極全うだと思う」
自分でも驚くほど硬い言葉が口を突いて出た。
対する箱入さんは、俺の謝罪を聞くと、意外そうに大きな瞳を瞬かせた。
「……不快感、ですか? いえ、その……私は、別に燈真さんを嫌いになったわけではなくて……」
「なら、なぜあんなに露骨に避けていたんだ」
問い詰めると、彼女の顔は一気に沸騰したかのように真っ赤に染まった。
「それは……。その、顔を見ると、昨日の……あの、お風呂場でのことを思い出してしまって……。恥ずかしくて、どうしていいか分からなかっただけなんです……!」
箱入さんは消え入りそうな声で白状すると、そのまま両手で顔を覆い、しゃがみ込んでしまった。
「ちょっと、冗談でしょ……。今の、聞き間違いじゃないよね?」
朱音の口から漏れたのは、先ほどまでの面白がる響きを一切排した、低く冷ややかな声だった 。彼女は廊下の壁からゆっくりと背を離すと、獲物を見定めた猟師のような鋭い視線を俺へと射抜いてくる。
「……は? お風呂場?恥ずかしい? 燈真、あんた一体、箱入さんに何をしたの」
「……不慮の事故だ。不可抗力によるものだと論理的に説明できる」
俺は即座に防衛線を張り、言葉の盾で状況を塗り固めようとしたが、朱音の顔からは完全に余裕が消え失せていた。
彼女は箱入さんの肩にそっと手を置き、まるで幼い妹を庇う保護者のような顔つきで俺を睨みつける。
「事故で済ませられる話じゃないでしょ! 相手はあの、こっちに来てまだ間もない箱入さんだよ。そんな子を相手に、あんたはお風呂場で……何、のぞき見!? それとももっと、その先のこと!?」
「待て、朱音。語弊がある。俺が意図的に何かを企てたわけじゃない。ただの偶然が重なっただけだ」
「理屈はいいよ。昨日家まで送っていってあげた、までは繋から聞いてたけど……まさかそんな、一線どころか三線くらい越えた事態になってたなんて思わないじゃない」
朱音の放つ圧に、わずかな気圧されを感じる。彼女は箱入さんの震える手をぎゅっと握りしめ、俺を一歩、また一歩と出口の方へ追い詰めてきた。
「最低。燈真のこと、信頼できるいい友達だと思ってたのに。……箱入さん、大丈夫。こんな不埒な男の言うこと、まともに聞かなくていいからね。あとのことは『お姉さん』が全部守ってあげる」
「あ、あの、東雲さん……。燈真さんは、その……わざとでは……」
箱入さんが消え入りそうな声で、真っ赤になった顔を隠しながらフォローを入れようとするが、火のついた朱音には届かない。
「いいの、箱入さんが優しすぎるだけ! ……決めた。燈真、あんたには相応の『制裁』が必要だね。繋にも全部話して、学園生活が更地になる以上の地獄を見せてあげるから」
朱音の瞳に宿ったのは、先ほどまでのいたずら心ではない。純然たる敵意と、正義感ゆえの怒りだ。
「本当に違うんだ! 俺が社会的に抹殺される前に、箱入さんからも何か言ってやってくれ!」
俺の悲痛な訴えに、ようやく箱入さんが顔を上げた。
「え、ええと……燈真さんは、お風呂場を覗いたわけではなくて……。私が、虫が怖くて……それで、その……一緒に泊まったんですけど……」
「……は?」
箱入さんの口から飛び出した、あまりに言葉足らずで破壊力抜群な「世間知らずゆえの爆弾発言」に、朱音の声が重なった。
朱音の視線が「信じられないものを見る目」へと変わり、その背後に渦巻く殺気が、俺の精神を物理的に削りにかかってくる。
不足しているどころか、火に油を注ぎかねないその説明を、俺は死に物狂いの論理展開で修正した。
燈真がそろそろ上がった頃だろうと安易に『決めつけ』て脱衣所の扉を開けた過失と、そして不慮の鉢合わせに至る交通事故的な因果関係。
朱音が「……まあ、燈真ならあり得るか」と呆れ顔で納得するまでには、それからさらに数十分の時間を要することになった。
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