008 失態
「おはよ、母さん。あれ……箱入さんは?」
階段を降りながら、俺は努めて平静を装って尋ねた。昨夜の光景が脳裏をよぎり、胃のあたりが微かに重い。
俺なりに一晩かけて「不慮の事故であったこと」を説明する論理を組み立ててきたのだが、その対象がリビングに見当たらないことに、拍子抜けしたような、あるいは逃げ出したくなるような感覚を覚えていた。
「歌凛ちゃんなら今朝、九条さんが迎えに来てくれて、もういないわよ」
キッチンで朝食の準備をしていた母さんが、手を止めることなく答えた。
「そうなのか……」
彼女が、一体どんな顔をして、いつこの家を後にしたのか。
顔を合わせずに済んだことに安堵すべきなのだろうが、同時に、自らの失態を清算する機会を永遠に失ったような焦燥が、胸の奥に澱のように溜まっていく。
「あら、もう少し一緒にいたかったのかしら」
「そんなんじゃねえよ!」
「あら、そう? でも昨日は本当に驚いたわ。帰ったらあんなに可愛らしいお嬢様がいるんだもの」
母さんはフライパンを揺らしながら、確信犯的なニヤけ面を俺に向けた。
「それは昨日、嫌というほど説明しただろ」
「そうなんだけどね。あの燈真が女の子を、しかも会ったばかりの子を家に入れるなんて、随分と珍しいなと思ってね」
母さんの茶化すような視線を受け、燈真は視線を逸らした。
確かに、以前の自分であれば、行き場のない少女を家に招き入れるなどという非効率な真似はしなかっただろう。
だが、箱入歌凛という少女が持つ、世間知らずゆえの危うさは、放っておけば何らかのトラブルに直結することは明白だった。
「だから、あのまま夜道に放り出しておくわけにはいかないだろ。効率的に考えて、母さんが帰ってくるまでここで預かるのが一番の解決策だったんだよ」
彼女には「お嬢様」という華やかな響きよりも、ただ純粋に、社会という外の世界から隔離されて育った「世間知らず」という危うさが似合っていた。
だからこそ、昨夜の失態が彼女に与えた恐怖は、普通の女子高生のそれよりもずっと深刻なものだったのではないか。
「ふーん……。でもねぇ、燈真。ただ『放っておけない』っていうのと、自分のテリトリーにまで入れて守ってあげるっていうのは、大きな違いがあるのよ。陽菜ちゃんが言ってたわよ。『燈真は究極のお人好しだから、最後には全部背負い込んじゃう』って」
「……あいつ、本当に余計なことしか言わないな」
陽菜姉の呪い、そして母さんの観察眼。
俺が必死に保とうとしていた「壁のシミ」としての立ち位置は、周囲の女性陣たちの手によって、無残にもスポットライトの当たる舞台上へと引きずり出されようとしていた。
◆
「おっす燈真」
教室の入り口をくぐるなり、昨日と同様、卑屈なまでにニヤニヤとした笑みを浮かべた繋が視界に入ってきた。そのあからさまに勘繰るような表情に、無意識のうちに警戒心が跳ね上がる。
「おう……。なんだよ、朝から気味悪い笑みを浮かべやがって」
「気味悪いって酷くない!?」
「客観的な事実を述べたまでだ」
「うわ、今日の燈真あたり強いぞ。なんか嫌な事でもあったのか?」
繋の指摘に、自分の声に余裕がないことを自覚する。冷静さを欠いている原因は、間違いなく昨夜の失態だ。
「いや、特には……」
アクシデントとはいえ、箱入さんの裸を見てしまったなどと正直に打ち明けるわけにはいかない。もしそんな事実を明かしたら最後、俺の平穏な学校生活は取り返しのつかない段階へと突き進んでしまうことだろう。
「へえ……」
「なんだよ、言いたいことがあるならはっきり言ってくれ」
「いや、昨日一緒に帰った後どうなったのか気になっただけだ」
「普通に家まで送ってったぞ。途中でコンビニに寄りはしたけどな」
そしてその後に虫の音が怖いという理由で、彼女を自宅に泊めるという想定外の事態に発展したのだが……。
「まじか、ついに燈真にも春が……」
「飛躍した結論を出すな。なんでそうなるんだよ」
「いやだって、それってもう放課後デートじゃん」
「デートという言葉を安売りするな。ただ家まで道案内をしただけだ。そもそも、互いに好意を持っている者同士が時間を共有することをデートと呼ぶんだろ? 俺も箱入さんも出会ったばかりなんだから、そんな感情が芽生える道理がない」
自分に言い聞かせるように、論理的な否定を重ねる。
「いやいや、案外箱入さんが好意あったりして……」
「……それはないと言い切れる」
昨夜、あんな無様な失態を演じたのだ。世間知らずな彼女といえど、自分の裸を直視した男に好意を抱くはずがない。俺へのなけなしの好感度は、今や地の底まで沈んでいると考えるのが妥当だ。
「……そりゃあまた、ずいぶんと自信満々な否定だな」
繋は面白そうに目を細め、俺の表情の微細な変化を逃すまいと顔を覗き込んできた。これ以上追求されれば、ボロが出るのは時間の問題だ。
「自信の問題じゃない。確率論の話だ」
俺はこれ以上言葉を重ねることを放棄し、繋の肩を軽く押し退けて歩き出した。
「お、おい逃げるなよ! まだ話は終わってねーぞ!」
「あいにくだが、俺の方は終わった。課題をやり忘れたんだ、今お前にかまっている時間はない」
背後でなおも「怪しい、絶対何かあった!」と騒ぎ立てる繋の声を無視し、俺は教室の窓際、自分の席へと滑り込む。
(好意、か……)
教科書を取り出そうとして、昨夜、見てしまった白すぎる肌の残像が脳裏をよぎる。
俺は慌てて頭を振り、視界に入った数学のワークを乱暴に開いた。今の俺に必要なのは、不確かな人間関係の推測ではなく、答えが明確に定まっている数式だけだ。
ふと、その思考を妨げるように、隣の席の辺りが騒がしいことに気づく。そこは昨日転校してきたばかりの、箱入さんの席だ。
彼女はすでに登校していた。だが、その姿を視認することは叶わない。
まるで希少動物を囲う檻でも形成されているかのように、クラスの連中が何層にも重なって彼女の席を取り囲んでいたからだ。
「箱入さん、昨日はどこに住んでるって言ってたっけ?」
「ねえねえ、休みの日は何してるの?」
外側まで漏れ聞こえてくる野次馬たちの声。中心にいるはずの彼女がどんな表情でそれに応じているのか、ここからでは頭の隙間からわずかに見える髪の揺らめきでしか判断できない。
確かめる術はない。……いや、確かめる必要なんてないんだ。
昨夜の失態を知る身としては、今の彼女の顔を直視できる自信など微塵もないのだから。
俺は逃げるように手元のワークへ視線を落とした。
隣から聞こえる喧騒が、今はひどく遠い世界の出来事のように感じられた。




