010 制服
――ピンポーン
箱入さんを巡るあの喧騒から三日が経過した。
食卓で朝食を摂っていると、唐突に玄関のチャイムが鳴り響いた。
平日の、しかも登校前のこの時間帯に訪問者など、心当たりが全くない。
不審に思いつつもインターホンのモニターを確認すると、そこには箱入さんの姿があった。
「お、おはようございます……」
画面越しでも伝わるほど、彼女は所在なげに視線を泳がせている。
「おう、おはよう。どうしたんだ、こんな朝早くに。なんかあったのか?」
「い、いえ。大したことではないのです……。ないのですが、その……」
大したことがないのなら、わざわざ登校前に他人の家を訪ねるという非効率な真似はしないはずだ。
普通なら「美少女が朝の迎えに来てくれた」と無邪気に喜ぶ場面なのだろうが、相手はあの箱入さんだ。
自分一人では解決不能な「想定外」の事態が起きたと推測する方が、よほど現実的だろう。
「わかった、今開ける」
ロックを解除し、俺は『想定外』への対応策を脳内でシミュレートしながら、勢いよく扉を開けた。
だが、視界に飛び込んできたのは、黒い外敵でもなければ、涙目の避難民でもなかった。
そこに立っていたのは、先日までの品の良い他校の制服ではなく、俺も見慣れた「うちの学校」の制服に身を包んだ箱入さんだった。
「……え」
予想外の状況に、俺の脳内シミュレーションが一時停止する。
新調されたばかりの生地は朝日に照らされて特有の光沢を放ち、彼女の白すぎる肌をより鮮やかに際立たせていた。
「あの、浅香さん……。お忙しい時間に、すみません」
箱入さんは申し訳なさそうに身を縮めると、気恥ずかしそうに制服の裾をぎゅっと握りしめた。
「昨日、ようやく制服が届きまして……。それで、今日からこれを着て学校へ行こうと思ったのですが、その……。着方、これで合っているでしょうか? こういうタイプは、初めてなもので……」
彼女は不安げに大きな瞳を揺らしながら、俺の反応を伺うように上目遣いで問いかけてくる。
どうやら彼女は、制服がうまく着れているか不安だったようだ。
「……似合ってるぞ。着方も、特におかしなところはない」
実際、おかしなところなど微塵もなかった。むしろ、これ以上ないほどに似合っていた。
普通、制服というものは「着せられている感」が少なからず出るものだが、彼女の場合は違った。
その造形の一部であるかのように馴染み、それでいて彼女自身の美貌をより残酷なまでに強調している。
「よ、よかったです……」
俺の言葉を聞いた瞬間、彼女は心底安心したように表情を緩め、花が綻ぶような笑みを浮かべた。
その無防備なまでの輝きを正面から浴びてしまい、俺は反射的に視線を斜め下へと逃がしてしまう。
ただ安心しただけ。彼女にとってはそれだけの意味しかない笑顔だと分かっていても、この破壊力は理屈で説明できる範疇を軽々と超えていた。
「……あ、あの、浅香さん? やはり、どこか変でしたか……?」
無言で顔を背けた俺の反応を、彼女は「着こなしに不備があった」と誤解したらしい。
不安そうに首を傾げた拍子に、艶やかな卵色の髪がさらりと肩から滑り落ちる。
「リボンが、少し歪んでいますでしょうか。それとも、ボタンを留める位置が……」
確認するように指先で自身の襟元を弄ぶその仕草も、本人の無自覚さも相まって、毒々しいほどに可憐だった。
朝の光に透ける白い指先と、慣れない手つきで生地を整えようとする仕草。
その一挙手一投足が、俺の平穏な思考回路をかき乱していく。
「いや、違う。そうじゃないんだ」
これ以上見ていると、何でもないはずの心拍数が限界を突破してしまいそうだ。
俺は湧き上がる動揺を隠すように、少しだけぶっきらぼうな口調で言葉を継ぐ。
「……見惚れてただけだ。昨日までの制服も良かったけど、こっちも、なんていうか……。今まで見た誰よりも、似合ってる。あまりに綺麗だったから、一瞬返事に困っただけだ」
制服の着こなしに対する評価として、最も正確で誠実なフィードバックを返したに過ぎない。
そう自分に言い聞かせ、俺は平静を装って彼女の顔を見た。
「…………えっ」
だが、そこにいたのは、先ほどまでの「所在なげな避難民」ではなかった。
箱入さんは大きく目を見開いたまま、石像のように固まっている。
やがて、彼女の白磁のような頬が、見る間に鮮やかな朱色へと染まっていく。
その赤みは耳たぶにまで広がり、彼女は熱に浮かされたように、ぎゅっと自分の顔を両手で覆い隠してしまう。
「き、綺麗、だなんて……。そ、そんな……急に、そんなことを……っ」
指の間から覗く瞳は潤み、先ほどまでの「上目遣い」とは明らかに質の違う、熱を帯びた視線が俺を射抜く。
どうやら、俺の放った言葉は、彼女という「箱」の防壁を容易く貫通してしまったらしい。
——しまった。
彼女が社会の知識に乏しい「世間知らず」であることを、俺は失念していた。
この手の褒め言葉に対する「適正な受け流し方」を知らない相手に、あんなストレートな言葉を投げるのは、無防備な相手への不意打ちに等しいだろう。
「……悪い、変な意味じゃない。客観的な感想を言っただけだ」
「わ、分かっております! 分かっておりますけれど……。あ、あの、その……っ」
彼女は小さく震える声で何かを言い淀み、真っ赤になった顔を伏せながら、ひたすら制服の裾を握りしめていた。
朝の静かな住宅街。
玄関先に流れるこの妙に甘酸っぱくて居心地の悪い空気は、俺の緻密な精神を、いとも容易く溶解させていった。




