004 こんびに
「行くぞ、箱入さん」
放課後。終礼のチャイムが鳴り響くと同時に、俺は手早く鞄に荷物を詰め込んだ。
周囲の連中が「箱入さん、これから予定ある?」なんて声をかける隙を与える前に、この場を離脱しなければならない。
「あ、はい! お待ちくださいませ」
彼女は慌てて立ち上がると、俺の背中を追うように教室を出た。廊下ですれ違う他クラスの連中が「今の誰だ?」と足を止めて振り返るのが分かったが、俺はそれらをすべて無視して歩調を速める。
校門を出てしばらく歩き、ようやく人通りが少なくなったところで、俺は隣の少女に視線を向けた。
「……で、家はどっちなんだ? 都会にいた頃とは勝手が違うだろ」
「はい。こちらに住んでおります叔母の家でお世話になることになっておりまして……。今日、この土地に参るのが初めてなのです」
なるほど、一人暮らしではなく親戚を頼っての転校というわけか。少しは安心したが、椅子一つ運べない彼女を預かる叔母さんの苦労を思うと、勝手に同情したくなった。
「昨晩は車で叔母の家へ向かいましたので、帰り道が全く分からなくなってしまい……」
申し訳なさそうに眉を下げる彼女。卵色の長い髪が夕陽を浴びてキラキラと輝き、すれ違う通行人が思わず二度見していく。隣を歩いているだけで、自分が場違いなエスコート役にでもなったような気分で落ち着かない。
「住所は分かるのか?」
「はい。メモを預かっております。ええと……」
彼女が鞄から取り出したのは、高級そうな便箋に丁寧に書かれた地図だった。幸い、俺の家と同じ方向だ。
「……わかった。俺の家と同じ方角だし、途中まで案内するよ」
「本当ですか! ありがとうございます、浅香さん」
ぱあっと顔を輝かせる彼女に、俺は少しだけ目を逸らした。
喜びすぎだ。ただ道案内をするだけなのに、まるで救世主にでも会ったような反応をされると、こちらが調子を崩される。
(……だが、その前に済ませなきゃいけないことがあるんだよな)
俺は、彼女の驚くほど薄い鞄を思い出す。教科書すら入っていなかったのだ。おそらく、今日の夕飯の算段など一ミリも考えていないに違いない。
「……なあ、箱入さん。一応聞くけど、今日の晩飯はどうするつもりだ? 叔母さんは家にいるのか?」
「ええと……叔母様からは、今夜は仕事で遅くなると伺っております。『自立の第一歩として、今夜は自分の好きなものを買ってきなさい』と、資金を預かって参りました」
そう言って彼女が取り出したのは、高級そうな革の財布と、そこから覗く五千円札だった。……叔母さんも叔母さんだ。この世間知らずを放置して「好きなものを買ってこい」とは、あまりに教育方針がスパルタすぎる。
「なあ、一人で店に入って飯を買ったことあるのか?」
「……いいえ。私そのような経験は一度も。常に食卓にはお食事が整えられておりましたので」
だろうな。
放っておけば、彼女は空腹のまま夜を明かしかねない。そうなれば明日、また俺が学校で彼女の面倒を見る羽目になる。それは俺の平穏にとって最大の脅威だ。
「……はぁ。帰る前に、ちょっと寄るぞ」
「えっ、どこへ行かれるのですか?」
「『こんびに』だよ。そこで今日の夕飯を調達する。……ほら、こっちだ」
俺が歩き出すと、彼女は「こんびに……!」と期待に満ちた声を上げて付いてきた。
夕陽に染まる町中を、卵色の髪を揺らして歩くお嬢様。そのミスマッチな光景に溜息をつきながら、俺は表通りの喧騒を避けるように、馴染みのコンビニへと足を向けた。
◆
自動ドアが開いた瞬間、俺の横で「まぁ……!」と小さな歓声が上がった。
「なんて明るい場所なのでしょう。そして、この棚に並んでいるのは、すべてお食事なのですか?」
「そうだよ。ほら、入り口で固まってると邪魔だぞ」
箱入さんは卵色の長い髪を揺らしながら、おにぎりや弁当の並ぶ棚を、まるで美術館の展示品でも眺めるような熱心さで見つめ始めた。
「浅香さん。この、三角形をした黒い布に包まれているものは何でしょうか?」
「おにぎりだよ。黒いのは海苔だ。……食べたことないのか?」
「……お米が、このような形で。お家では、常に茶碗に盛られておりましたので……。これなら、私でも簡単に『家具の運搬』のように運べそうです」
おにぎりと椅子の運搬を一緒にするな。俺は心の中でツッコミを入れつつ、カゴを手に取った。
「これなら温めなくても食えるし、一つ買っておけ。あと、飲み物もな」
俺が棚からパックのレモンティー――今度は昼より少し大きめのやつを手に取ると、彼女は「魔法のようです」と目を輝かせた。
さらについでに、棚の隅にあった猫の肉球の形をしたグミを興味深く見つめていたので、それもカゴに放り込んでやる。
「ですが浅香さん。これほどのお品物、おいくら支払えばよろしいのでしょうか。このような場所での『けっさい』というものを経験したことが……」
意を決したように彼女がレジへ歩み寄る。店員さんの前に立ち、例の五千円札をおずおずと差し出した。
「……あの、こちらを頂戴したく存じます。これで足りますでしょうか?」
店員さんは一瞬、彼女の浮世離れした美貌と丁寧すぎる言葉遣いに呆然としていたが、手慣れた様子で会計を済ませていく。
「四百八十円になります。四千五百二十円のお返しです」
「……お返し? 頂いてよろしいのですか?」
おい、と俺は心の中で毒づいた。お釣りという概念すら怪しいのか。
慌てて彼女の横に並び、トレイに置かれた千円札と小銭を指差した。
「いいから、それはお前の金だ。早く財布に入れろ」
「あ……はい。失礼いたしました」
彼女はお釣りを受け取ると、まるで宝物でも手にしたかのように空色の瞳を輝かせた。無事に「けっさい」を終えた達成感で、その頬は微かに上気している。
「浅香さん、見てください。私一人で買い物ができました!」
「……四百円の買い物に俺が付き添ってるんだから、一人じゃないけどな」
誇らしげにレジ袋を提げる彼女を見て、俺はまた深い溜息をついた。
たかがコンビニの買い物でこれほど体力を削られるとは。
「さて、買い物が済んだらさっさと帰るぞ。叔母さんの家は、ここから二つ目の角を曲がった先だろ」
「はい! よろしくお願いいたします、浅香さん」
夕闇が迫る街路。俺の少し後ろを、レジ袋を揺らしながら嬉しそうに付いてくる美少女。
彼女にとっては大冒険だったのだろうが、俺にとってはこれからの多難な日々を予感させる、不穏な始まりにしか思えなかった。




