003 こうばい
「なあ、もしかして弁当もないなんて言わないよな」
昼休み。机を離したはずなのに、なぜか俺の隣でじっと動かず、空の机とにらめっこを続けていた箱入さんに、俺はたまらず声をかけた。
「はい……。その通りでございます」
消え入りそうな声で返ってきた肯定に、予想はしていたが頭を抱えたくなった。教科書だけでなく、食事まで他人任せだったのか。
「はあ……。まったく」
思わず深いため息が漏れる。
このまま午後の授業で彼女が空腹のあまり力尽きでもしたら、その瞬間にクラスの視線という名の矢が、隣席の俺に一斉に降り注ぐことになるだろう。それだけは何としても避けなければならない。
(……これ以上、恨みを買いたくないんだよ)
「しょうがない、購買行くぞ」
俺が立ち上がると、箱入さんは驚いたように目を丸くした。その表情は、まるで未知の場所に誘われた子供のように不安と期待が入り混じっているように見えた。
「こうばい……? それは、どのような場所なのでしょうか」
嘘だろ、と燈真は天を仰ぎたくなった。
彼女の中では、食事というものはどこからか勝手に運ばれてくる魔法のようなものだと思っているのかもしれない。
「いいから来い。ぼーっとしてると、パンが全部なくなるぞ」
燈真は、いまだに勝手が分からず戸惑っている様子の箱入さんを促し、騒がしい廊下へと一歩を踏み出した。
◆
購買へと続く廊下は、戦場へ向かう兵士のような形相の男子生徒たちで溢れかえっていた。
「……浅香さん、皆様なぜあのような険しいお顔で走っていらっしゃるのですか? 何か緊急の事態でも?」
「ある意味ではな。空腹に負けた野獣たちの群れだよ」
俺の後ろを、汚されないように守られながら歩く雛鳥のように付いてくる箱入さん。
彼女の卵色の髪が波打つたび、廊下のむさ苦しい空気が一瞬だけ浄化されるような気がしたが、現実は非情だ。
購買のカウンター前は、すでにもみくちゃの状態だった。
「ひゃっ……!?」
不意に横を通り過ぎた柔道部員と思わしき巨体に肩がぶつかりそうになり、箱入さんが小さく悲鳴を上げる。
彼女の瞳が恐怖に揺れるのを見て、俺は無意識に彼女の細い手首を掴んでいた。
「……離れるなよ。迷子になったら探し出す自信がない」
「あ、はい……っ。申し訳ありません」
申し訳なさそうに、しかし俺の袖をぎゅっと掴み返してくる彼女。その感触を無視して、俺は人混みの隙間へと身体をねじ込んだ。
「 焼きそばパン一つと……あと、何がいい?」
「えっ、ええと……。あちらの、ピンク色をした可愛らしいものは何でしょうか?」
彼女が指差したのは、よりによってこの購買で最も激戦となる『限定・イチゴジャムマーガリンサンド』だった。
「分かった。おばちゃん! 焼きそばパン一つと、あと限定のイチゴサンド! それとパックのレモンティー二つ!」
周囲の怒号に近い注文に負けじと声を張り上げ、なんとか食料を確保する。人混みを脱出した頃には、俺の制服はすっかり乱れ、かなりの体力を消耗していた。
「……ほら、これ。お前の分」
「これが……『こうばい』のパン……。温かいのですね」
手渡したパンを、まるで壊れ物でも扱うかのように両手で包み込む箱入さん。彼女は包装越しに伝わる微かな熱に、驚いたように目を輝かせていた。
「それに、この飲み物は……?」
「レモンティーだよ。ストロー刺して飲むんだ。……ほら、やってやるから」
俺がパックの口にストローを突き刺して手渡すと、彼女は空色の瞳を丸くしてその様子を凝視していた。どうやらストロー付きの紙パック飲料すら、彼女の世界には存在しなかったらしい。
「ふふ、なんだか冒険の戦利品のようです。浅香さん、ありがとうございます」
ストローをそっと咥え、初めての味を確かめるように一口。すると、彼女はまた、あの無防備で破壊力抜群の笑顔を見せた。
その瞬間、周囲でパンを齧っていた連中数名が、あからさまに動きを止めてこちらを凝視したのを俺は見逃さなかった。
(……だから、そういう顔を外でするなって。余計なヘイトが溜まるだろ)
卵色の髪を揺らしながら、「甘酸っぱくて、とても美味しいです」と喜ぶ彼女。
胃のあたりにずっしりとした重みを感じながら、俺は逃げるように彼女を連れて、嵐の去った廊下を教室へと引き返した。




