013 ハチマキ
「おはようございますッ!浅香さん!」
球技大会一日目。席に着くなり、鼓膜を直接揺らすような快活な挨拶が飛んできた。
視線を上げれば、そこには見慣れた制服ではなく、紺色の短パンにクラスTシャツという、あまりに「健康的」すぎる装いの箱入さんが立っていた。
普段の浮世離れした令嬢の面影はどこへやら、露出した四肢の白さと無防備な立ち姿は、地味な教室の中でそこだけ発光しているかのように目を引く。
いつもは背中で優雅に流れている卵色の長い髪が、今日は高い位置で一つに束ねられ、瑞々しいポニーテールとなっている。
案の定、周囲の男子生徒たちの視線は釘付けになっており、その羨望の熱量は、早くも俺の精神的平穏を焼き尽くさんばかりに膨れ上がっていた。
「おはよう……。って朝から気合入ってるな」
「はい! 今日はなんといっても球技大会ですからね! 楽しみで夜も眠れませんでした」
「おう、そうなのか」
思わずため息混じりの返答が漏れる。
眩しすぎる笑顔を直視し続けるのは、効率的な精神管理の観点から言ってもよろしくない。俺は逃げるように彼女の額へと視線を移し――そして、その異様な光景に絶句した。
「ちなみに気合十分なとこ悪いがそのハチマキ……」
「その……おかしいでしょうか?」
本来、後頭部で無骨に結び、戦意を高めるための「装備」であるはずの布切れ。
それが彼女の手にかかれば、巨大で優雅なリボンへと変貌を遂げ、頭上に君臨していた。体育祭という名の「戦場」に、社交界の髪飾を持ち込むような暴挙だ。
彼女は不安げに周囲を見渡し、他の生徒たちの「正解」を確認しているようだった。
己の浮世離れしたセンスにようやく気づいたのだろう。羞恥を感じたのか、彼女の白い頬が瞬く間に桜色へと染まっていく。
「付け直そうか?」
「いいのですか?」
「いいぞ、ほら後ろを向け」
観念して背中を向けた彼女の、リボン結びという名の「迷い」をほどく。
視界を占拠したのは、安っぽいTシャツの生地と、その上を滑るように流れる柔らかな卵色の髪。
指先に触れるそれは驚くほど瑞々しく、湯上がりの時よりも淡い、けれど抗いがたい甘い花の香りが鼻腔をくすぐった。
(……にしても、髪サラサラだな。本当に、同じ人間かよ)
理性的であろうとする思考の端で、そんな素直すぎる感嘆が漏れそうになる。
それを振り払うように、俺は努めて事務的に、かつ慎重に指を動かした。
「髪、少し引っかかるぞ」
「だ、大丈夫ですっ」
首筋に俺の指が触れるたび、彼女の肩が小さく跳ねる。
その繊細な反応が、厚い壁一枚隔てた向こう側にいたはずの「お嬢様」という存在を、生々しい一人の少女として俺の意識に焼き付けていく。
「……よし。どうだ、きつくないか?」
「……はい、大丈夫です。ありがとうございます」
彼女はおずおずと振り返り、潤んだ瞳で上目遣いにこちらを伺ってきた。
至近距離で合う視線。ポニーテールが揺れるたび、彼女の健康的な色香が強調され、心臓に悪い。
「その……。どうでしょうか?」
「問題ない。様になってるぞ」
「本当ですか? よかったです」
ぱぁっと花が綻ぶような、満面の笑み。
無防備に向けられたその光線に、俺は反射的に視線を斜め下へと逃がした。
だが、その逃げた視線の先で。俺は先ほどからずっと感じていた「致命的な違和感」の正体を、ついに捉えてしまった。
「……お前、それ」
「はい?」
「何なんだよ、そのTシャツの文字」
「Tシャツ、ですか? クラスの皆様が、私に最も相応しいと選んでくださったのですが……」
「お前それでいいのか?」
「はい、その……。変でしょうか?」
「変っていうか……」
不安げに小首を傾げる彼女を見て、俺はそれ以上の指摘を飲み込んだ。
クラスの連中がどのような悪意、あるいは敬愛を込めて彼女にその看板を背負わせたのかは、想像に難くない。
だが、本人がそれを「友情の証」として純粋に受け入れている以上、外野が口を挟むのは野暮というものだろう。
「いや、やっぱなんでもない」
「そ、そうですか? 浅香さんがそうおっしゃるなら……」
「あー、燈真ぁ?」
不意に、背後から下卑た笑いを含んだ声が鼓膜を叩いた。天野繋だ。
やはり、ろくな予感がしない。俺の耳元まで顔を寄せると、そいつは心底楽しそうに、獲物を追い詰める猟師のような声で囁いてきた。
「朝からいい身分だねぇ。お嬢様の髪を弄るとか、全男子の敵に回る準備はできた?」
「……うるせえ。ハチマキがリボンになってたから直しただけだ」
「どーどー。理屈はいいから」
繋はひらひらと手を振ると、驚異的な速度で「善人」の表情へと切り替え、箱入さんに向き直った。その変わり身の早さには、呆れを通り越して殺意すら覚える。
「おはよ、箱入さん」
「おはようございます、天野さん」
「それにしても……。いやー、球技大会楽しみだね」
「はい! 天野さんはなんの種目に出られるのですか?」
「俺は、バスケとソフト。箱入さんは?」
「私は、バレーとバドミントンです!」
「へえ、そうなのか! お互いがんばろうな!」
「はい!」
「燈真も、な!」
「わーってるよ」
努めて素っ気なく返すが、繋の含み笑いが耳に障る。
昨日のファミレスでの「尋問」を考えれば、その言葉の裏にある「面白がっている」だけの意図など、考えるまでもない。
「箱入さん! ちょっといいかな、作戦会議しよ!」
クラスの女子たちが、女子特有の賑やかさで箱入さんに手招きをする。
「はい! 今行きます。それでは、浅香さん、天野さん。いったん失礼いたします」
彼女は優雅に一礼すると、弾んだ足取りで女子たちの輪へと駆けていった。
その浮世離れした、しかし危ういほどに無垢な背中を見送る。
刹那、隣にいた繋が、堪えきれないといった様子で「ぶっ……!」と噴き出した。
「どうした?」
怪我人を眺めるような目で隣を問い詰めると、繋は腹を抱えたまま、廊下へと消えていく彼女を指差した。
「いや、箱入さんのクラT……」
「分かってる俺も思った」
廊下へと向かう彼女の、白く華奢な背中。
そこにプリントされた文字を、俺は死んだ魚のような目で見つめるしかなかった。
【取扱注意:お嬢様】
背番号【001】を背負ったその「至宝」の背中。
それが、これからの三日間、俺の平穏な学校生活を粉々に蹂躙することを確信し、俺は本日何度目か分からない深い溜息を、静かに吐き出した。




