014 おにぎりとバドミントン
球技大会二日目。
一日目は、大きな問題もなくだいたい予定通りに終わった。
特に目立つこともなく、卓球はわざとらしくない程度のミスで初戦敗退。
一方で、うちのクラスの箱入さん率いるバレーチームは、彼女の放つ圧倒的なオーラに相手がビビったのか、そのままボコボコにして決勝進出を決めていた。
「……浅香さん。卓球は残念でしたが、次はバドミントンです! 全力で応援いたしますので、頑張ってきてください!」
昼休み。俺の隣に座って、手作りだというちょっと形の悪いおにぎりを大事そうに持ちながら、箱入さんは真剣な顔で言ってきた。
「おう、ありがとな」
「いいえ! 昨日のバドミントンで、私は学びました。あの羽根は、ただ待っているだけでは微笑んでくれないのだと……!」
「あれを微笑ませるには、まずラケットに当てるところから始めないとな」
昨日の試合で、彼女が一度もシャトルに触れられず「優雅な空振り」を連発して負けたことなんて、本人の頭の中では前向きな経験に変換されているらしい。
「ですので、私の分まで、浅香さんには勝利を掴んでいただきたいのです。……これ、もしよろしければ召し上がってください。浅香さんの勝利を願って、私が握ってきたのです」
その瞬間、周囲の空気が数度ほど一気に下がったような気がした。
午後の日差しを避けるためにカーテンで閉め切られた教室は、照明もついておらず、どんよりと薄暗い。だが、その暗がりのあちこちから、男子たちの「殺意」にも似たどす黒い視線が、針のむしろとなって俺の背中に突き刺さるのを感じた。
胃の奥をえぐられるような不快感に耐える俺を余所に、箱入さんはそんな不穏な空気を微塵も気にすることなく、大切そうにおにぎりを差し出してきた。
アルミホイルに包まれていても隠しきれない、岩のようなゴツゴツとした威圧感。それはおにぎりというより、彼女の純粋すぎる期待が凝縮された「爆弾」のように見えた。
「あ、ありがとう。……これ、中身は何なんだ?」
「はい! 栄養が大切だと思いまして、焼き鮭と、梅干しと、おかかと、それから……佃煮を入れました!」
「全部入りかよ……」
おにぎりというよりは「米の爆弾」に近いそれを、俺は覚悟を決めて一口かじった。
瞬間、猛烈な塩気の波が口の中を支配する。
おそらく「適量」という概念を知らないのだろう。具材のすべてが中心で喧嘩を始めていた。鮭の塩味に梅干しの酸味がぶつかり、そこにおかかと佃煮の濃い醤油味が追い打ちをかけてくる。
だが、噛みしめるうちに意外なことに気づく。
米は驚くほどふっくらと炊けていて、具材の過剰な主張をギリギリのところで受け止めていた。高級な米を使っているのか、あるいは彼女が手のひらを真っ赤にして一生懸命に握った圧力が絶妙だったのか。
喉を通る際、その「全部盛り」の混沌とした味が、不思議と運動前の体にガツンとした活力を与えてくれるような気がした。
「……どうでしょうか。お口に合ったらいいのですが」
不安そうに俺の顔を覗き込んでくる空色の瞳。
ここで「しょっぱすぎる」と切り捨てるのは簡単だが、この複雑怪奇な味の中には、彼女が慣れない手つきで米を研ぎ、火を通した時間が詰まっているのだ。
「……悪くない。味の渋滞がすごいけど、エネルギー補給にはこれぐらいがちょうどいいな」
「そうですか! よかったです」
ぱぁっと、彼女の表情に花が綻ぶような満面の笑みが浮かぶ。
正直、これほど無防備な喜びを向けられては、男として――いや、ひとりの人間として「適当に負けて終わらせる」という選択肢が酷く薄情で、裏切りに近いものに思えてくるから不思議だ。
「試合だけど……。まあ、できる範囲で頑張るよ」
「はい! 試合中はコートのすぐ側で、ありったけの声で応援させていただきますね!」
「……いや、それは目立つから、なるべく遠くから静かにしててくれると助かるんだが」
「遠慮なさらないでください! 浅香さんの勇姿、一秒たりとも見逃しません!」
話が全く噛み合っていない。
彼女の「全力の応援」が、俺の胃に新たな痛みを呼び起こしていた。だが、当の本人はそんな俺の心労など露知らず、満足げに自分の分のおにぎり(これまた岩のようにデカい)を、小さな口を精一杯開けて頬張り始めていた。
◆
そして迎えた、午後のバドミントン個人戦。
会場となる体育館は、熱気と、そして独特の「お祭り騒ぎ」の空気で満たされていた。本来ならその喧騒の端で静かに自分の番を待ち、静かに敗れ去るのが俺の様式美なのだが。
「あさかさーん! がんばってくださいー」
「燈真ー! ここで勝たなきゃ男じゃねえぞー!」
「ちょっと燈真、あんた無様な負け方したら承知しないからね!」
試合開始直前。コート脇の最前列には、身を乗り出してこちらを凝視する箱入さんの姿があった。そしてその隣には、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべる繋と、なぜか他クラスのはずなのに当然のように混じっている朱音が陣取っている。
高い位置で束ねられた卵色の瑞々しいポニーテールが、彼女が動くたびに揺れ、周囲の男子たちの視線を不必要に誘引している。その背中の【取扱注意】の文字と、俺を茶化す気満々の友人二人。
目に入ってくる情報のどれもこれもが、俺の胃をキリキリと締め付けてくる。
いざコートに入れば、主審の椅子に座っていたのは従姉の陽菜姉――朝比奈先生だ。
彼女は午前中の俺の「戦略的敗北」を知っているのだろう。今回は余計な口を挟むことこそなかったが、その不敵な笑みが「さあ、彼女の前でどんな無様な姿を見せてくれるのかな?」と、無言で特大のプレッシャーをかけてくる。
(……最悪だ。早く終わらせて、この場から脱出したい)
内心でそう毒づき、早く引き上げるための最短ルートを模索する。
だが、期待に満ちた空色の瞳で俺を射抜く箱入さんの姿を見てしまうと、どうにも指先が言うことを聞かない。
適当に負けて彼女をガッカリさせるくらいなら、いっそ派手に動いて周囲を黙らせる方が、その後の「説明」が楽になるんじゃないか――。
そんな、男子高校生らしい余計なプライドが、嫌なところで疼き始めていた。
ピーッ、と鋭いホイッスルが響く。
いつもならさっさと負けて身を引くところだ。
だが、胃の中にはまだあの信じられないくらい塩辛いおにぎりの熱が残っている。
やる気のない試合で彼女の期待を裏切るなんて、俺のプライドが許さなかった。
キュッ、と床を掴むシューズの音。
最短距離でシャトルの下に潜り込み、俺は今日いちばんの踏み込みを見せた。
「おぉ……っ!」
一撃。
放たれたスマッシュが、乾いた音を立てて相手コートの隅に突き刺さる。
繋の「え、あいつあんなに動けんの?」という驚いた声と、朱音の「いいじゃない!」という騒がしい声が遠くに聞こえた。
「凄いです! 浅香さん、今の『すまっしゅ』、まるでお星様のようです!」
お星様、ね。
相変わらず例え方がお嬢様すぎてよく分からないが、その顔が今日いちばん輝いていることだけは、認めざるを得なかった。
俺は息を整えながら、チラリと彼女を見た。
――やれやれ、この後の喉の渇きと、周りからの嫉妬の視線。その両方を引き受けるハメになった代償は、かなり高くつきそうだった。
◆
結局、俺はその後も勝ち進んでしまった。
一試合ごとに熱を帯びていく彼女の声援と、それに応えなきゃいけないという変な義務感。それらが複雑に絡み合った結果、俺は不本意ながらも「準優勝」なんていう、そこそこ目立つ結果を残してしまったのだ。
最後の最後で力尽きて、優勝には届かなかった。
だけど、体育館に響く拍手は、壁のシミになりたい俺にとっては、耳を塞ぎたくなるほど大きかった。
「浅香さん! おめでとうございます! 私、感動して……もう、言葉になりません!」
コートから出た途端に駆け寄ってきた箱入さんの瞳には、うっすらと涙さえ浮かんでいた。
「……いや、そんな泣くほどのことじゃないから。ただの学校の大会だぞ」
「いいえ、凄かったです! あんなに一生懸命な浅香さんを見られて、この学校に来て本当に良かったと思いました」
満面の笑みで、しかも涙目でそんなことを言われてしまうと、毒づく言葉も出てこない。
ついカッコつけて動いてしまった恥ずかしさと、明日からさらに平穏が遠のく予感で頭が痛い。
掲示板のトーナメント表に書かれた、自分の名前の横の「準優勝」という文字。それを自分のことのように誇らしげに見つめる彼女の笑顔を前に、俺は本日何度目か分からない深い溜息を、そっと吐き出したのだった。




