不変
37
八重との面会から僅か二週間後、風邪を拗らせた蒼司は肺を病んだ。
蒼司は混濁した意識の中で、必死に千春に囁きかけていた。
ーー
千春さん、私たちの娘は、本当に立派に育ってくれたね。
真っ直ぐで純粋で優しい。
それに、君に似て嘘が下手だ。
私を気遣って、君は今体調が悪くて外出できない、と言ってくれたよ。
君も誇らしいだろう?
私は幸せだ。
まさか人生の最期にこんな贈り物があるなんて、思っても見なかったよ。
君に会えたことだけで、これ以上何もいらないと思えたのに、本当に幸せなことだ。
こんなことを言ったら怒られるのを承知で言うよ。
私は相変わらず、死ぬのがちっとも怖くないんだ。
もうすぐ君に会えると思ったら、恐怖どころか歓喜で胸が震えそうだよ。
そんなに怒らないで聞いてくれ。
君のいない時間はやはりーー途方もなく長くて、情けないけど寂しかったんだ。
でも君を思い出す暇もないくらい、私は君でいっぱいだった。
これだけは誓うよ。
愛してる。ずっと、変わることなく。
私を愛してくれてありがとう、千春ーー
ーー
やがて苦しそうだった呼吸は止まり、安らかな表情を浮かべた蒼司を静寂が包んだ。
外では満開の桜が咲いていた。
それはまるで、生を全うした蒼司を祝福するかのようだった。
「あっ」
八重の手が滑り、持っていたガラスが床に落ち割れた。
その大きな音に、心配した勇が「どうした? 大丈夫??」と暖簾から顔を覗かせる。
「うん、大丈夫ーー」
八重の頬を涙が伝わっていた。
動揺する勇が八重に近づく。
「一体どうしたんだい?」
「どうしてだろう、私可笑しいわよね……なんだか急に……」
言葉に詰まった八重は片手で口を覆い、流れる涙をそのままにした。
勇はそれ以上何も言わず、静かに八重の背中をさすった。
38
蒼司の死後、監獄所から八重の元に分厚い雑記帳が送られてきた。
同封されていた差出人不明の手紙には、短い文が添えられていた。
ーー
一読したら、処分できなくなりました。これはあなたが持つのに相応しい。
ーー
不思議に思った八重が雑記帳を捲ると、そこには、細かい字で物語が綴られていた。
時は変わり、十六年後の春。
「巴」
母の八重の呼ぶ声に、巴は振り向いた。
巴が手にしていた物を見て、八重は優しく微笑んだ。
「また読んでるの? すっかりお気に入りね」
巴はほんのり染まった顔を見せ、八重に尋ねる。
「母上、これってお祖父様がお書きになったのですよね? 実話の部分はあるのかしら?」
八重は少し時間をかけて言葉を発した。
「……さぁ、どうかしらね?」
巴は瞳をキラキラさせながら、その本を大切そうに撫でる。
「私も一生に一度はこんな恋がしてみたいわ!」
顔を綻ばせた八重は、開け放たれた窓から見える青空に向かって呟いた。
「母上は本当に幸せね……」
「えっ、母上、今何かおっしゃいました?」
「何でもないわ。それより、約束の時間でしょう? 早登子さんが下でお待ちですよ」
八重は慌てた。
「やだ、もうそんな時間?! 母上、行って参ります!!」
お行儀の良くない巴に一瞬眉を顰めた八重だが、非難する気もおきず「いってらっしゃい」と笑顔で見送った。
溌剌とした巴の後姿を見た後、巴が机上に置いた本を手に取る。
送られて来た雑記帳を長い時間かけて丁寧に清書し、一冊の本にしたのは八重だった。
あの様子ではきっと巴は、明日も明後日も明々後日も、飽きることなくこの本を手にするに違いない。
そうして恐らく諳んじられるようになる程、父が母に送った一世一代の恋物語を読むのだろう。
私がそうだったようにーー
蒼い空は果てしなく続き、八重はこの世に永遠があるのだと信じられる気持ちになった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
明治時代について全く無知だったため、この作品を書くのに手間取りました。
そんなこともあり、三作の中で一番思い入れの強い作品となりました。気に入っていただけたら幸いです。




