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第三話 名前のない女たちも、ここにいる。

一九一九年、六月五日。上海(シャンハイ)。


唐映秋(タン・インチウ)が初めて自分の命を惜しいと思ったのは、国のためでも、自由のためでもなかった。

たった一人の、字の汚い学生のためだった。


その朝、上海の街は静かだった。


学生たちの抗議に商人や労働者が呼応し、店の戸が閉ざされ、工場の機械が止まっていく。

北京(ベイジン)で始まった五四運動は、ついにこの街の暮らしそのものを揺らし始めていた。


「革命って、ずいぶん静かなのね」


紅月楼(ホンユエロウ)の二階から通りを眺め、映秋が呟く。


「嵐の前だからじゃない?」


隣で蘇雪蓮(スー・シュエリエン)が答えた。彼女の髪には、軍人の恋人から贈られた銀の梅の簪が光っている。


「嫌なこと言わないでよ」


「映秋が珍しく真面目な顔をしているから」


「恋する女はみんな馬鹿になるのよ」


「じゃあ、私たち二人ともね」


顔を見合わせ、笑った。

その笑い声を、映秋は後になって何度も思い出すことになる。


*


昼過ぎ、方予澄(ファン・ユーチョン)が裏口から現れた。


頬の傷はまだ薄く残り、丸眼鏡の片方のつるが曲がっている。


「……今度は眼鏡?」


「人混みで落としました」


「あなた、国を変える前に自分の持ち物を守りなさい」


「努力します」


「その返事、去年から聞いてる」


映秋は呆れながら眼鏡を外させ、曲がったつるを慎重に直した。

予澄は彼女の横顔を見つめていた。


「……何よ」


「白い花、今日も挿してくれているんですね」


「悪い?」


「いいえ。嬉しくて」


あまりにも素直な笑顔だった。

映秋は視線を逸らす。


「……革命家さまは、本当に恋が下手」


「まだ革命家ではありません」


「じゃあ、私の恋人?」


予澄は一瞬固まり、それから小さく頷いた。


「……はい。そうでありたいです」


「馬鹿ね。もう、とっくにそうでしょう」


彼の耳が赤くなった。

映秋は笑った。


こんな些細な幸福を、自分が手に入れる日が来るなんて思わなかった。


*


予澄は懐から紙の束を取り出した。

学生たちの声明文だった。


「夕方までに配りたいんです。でも、僕の字では……」


「読めないものね」


「……はい」


「ようやく認めたわね」


映秋は筆を取った。

紙の上に、整った文字が並んでいく。


国の未来。民衆の権利。教育を受ける自由。

書きながら、ふと思った。


十三歳で売られた自分が、こんな言葉を綴る日が来るとは。


「……映秋」


「何?」


「危険なことに巻き込んでしまって、すみません」


彼女は筆を止めた。


「あなた、私を助けたいって言ったわよね」


「はい」


「でもね。助けられるだけの女だと思われるのは、癪なの」


予澄が顔を上げる。


「私だって、この国で生きてる。名前もある。考える頭も、書く手もあるのよ」


青年は黙って彼女を見つめた。

やがて、深く頷いた。


「……あなたがいてくれて、よかった」


映秋は鼻を鳴らした。


「そう思うなら、次はもう少し綺麗な字で持ってきなさい」


*


夕刻、紅月楼の窓から歌が流れた。


雪蓮が琵琶(ピーパー)を奏で、楼の女たちが故郷を思う歌を重ねる。

通りの人々が足を止めた。


「姐姐(ジエジエ)(お姉さん)! みんな聞いてる!」


小蘭(シャオラン)が身を乗り出す。


「落ちるわよ!」


映秋が叫ぶと、小蘭は笑った。


「映秋姐(インチウジエ)(映秋姉さん)だって、さっきまで窓から紙を配ってたくせに!」


「私は落ちても受け止めてくれる男がいるの!」


階下の予澄が真っ赤になった。


「……受け止めます!」


「本当に落ちたら困るから、そこは否定しなさい!」


女たちの笑い声が、通りへこぼれた。


けれど、その向こうで怒号が上がった。

警笛が鳴り、人々が走り始める。


予澄の表情が変わった。


*


「仲間を探してきます」


「……また?」


映秋は彼の袖を掴んだ。


「今日は帰りなさい。もう十分やったでしょう」


「まだ戻っていない学生がいるんです」


「あなたまで戻らなかったら?」


予澄は答えられなかった。

映秋は俯き、それから彼の胸に額を寄せた。


「……私ね、もう明日が嫌いじゃないの」


青年の腕が、そっと背中に回る。


「あなたが来ると思うと、朝が楽しみになった。だから……」


声が震えた。


「私の明日を、勝手に持っていかないで」


予澄は彼女を強く抱き締めた。


「必ず帰ります」


「……約束よ」


「はい」


映秋は顔を上げ、彼の唇に口づけた。

何度も重ねるうち、予澄の眼鏡がずれた。


「……本当に、下手ね」


「眼鏡が邪魔で」


「外せばいいでしょう」


「あなたの顔が見えなくなります」


映秋は泣きそうな顔で笑った。


「……馬鹿」


もう一度だけ抱き締めて、彼を送り出した。


*


騒ぎが近づいたのは、それから間もなくだった。

紅月楼の女主人が、裏の物置へ紙束を運び込んでいた。


「こんなもの、置いておけるかい! 役人に見つかったらどうする!」


「待って、そこには灯油が――」


映秋の制止より早く、火が紙へ移った。

乾いた木箱が燃え上がる。


黒煙が廊下へ噴き出した。


女たちが悲鳴を上げ、階段へ殺到する。


映秋も走った。

だが、背後から小さな声がした。


「……映秋姐」


振り返ると、煙の奥に小蘭がいた。

配り残した紙を抱え、出口を見失っている。


映秋は一瞬、立ち尽くした。

予澄の声が蘇る。


――僕は、あなたと生きたいです。


白い花の髪飾りに触れる。

明日も、これを挿すつもりだった。


「……まったく」


映秋は濡れた布を口に当てた。


「うちの子たちは、どうしてこう手がかかるのかしら」


そして炎の中へ戻った。


*


小蘭は助かった。


映秋に押し出され、駆けつけた男たちに受け止められた。


だが、その直後、燃えた梁が崩れ落ちた。

予澄が戻ってきたとき、裏手は炎に包まれていた。


「……映秋?」


返事はない。


「映秋!」


彼は走り出した。

誰かが腕を掴む。


「駄目だ! もう入れない!」


「離してください!」


「死ぬぞ!」


予澄は叫んだ。


「中に、僕の大切な人がいるんです!」


炎が窓を破った。

紅い灯籠が落ちた。

その音は、ひどく乾いていた。


*


翌朝、焼け跡から白い花の髪飾りが見つかった。

花弁の一枚は黒く焦げ、細い金具は熱で歪んでいた。


予澄はそれを掌に載せた。

昨日まで、彼女の髪に咲いていた花だった。


「……映秋」


明日が嫌いだと言っていた女。

ようやく明日を好きになった女。

その女が、自分の帰る場所になっていた。


予澄は髪飾りを握り締めた。


「……明日になりましたよ」


朝の光が、焼けた壁を照らしていた。

昨日、彼女が書いた声明文が、一枚だけ風に舞う。


そこには、美しい文字でこう記されていた。


『私たちにも、明日を生きる権利がある。』


予澄はその紙を拾った。

映秋の文字だった。


彼女はもういない。


けれど、彼女が書いた言葉だけが、朝の街に残っていた。


――第三話・了――


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