第四話 あなたのいない明日を、誰が生きる。
一九一九年、六月二十八日。上海。
方予澄は、国が勝った日に、恋人の葬式を思い出していた。
中国代表団が、ヴェルサイユ条約への署名を拒否した。
北京で始まった五四運動は、上海の学生、商人、労働者を巻き込み、ついに国の決断を動かしたのだ。
「方! 僕たちの声が届いたぞ!」
仲間が肩を叩く。予澄は微笑んだ。
「……ああ。よかった」
嘘ではなかった。
ただ、あの日から何を喜ぶにも、心のどこかに一人分の空席ができていた。
*
紅月楼の裏手には、まだ焦げた柱が残っていた。
唐映秋が死んで、二十三日。
表の楼では客が笑い、女たちが歌い、帳場では銅貨の音がしている。
彼女がいなくても、世界は驚くほど律儀に動いていた。
「……方さん」
小蘭が彼を迎えた。腕には火傷の痕が残っている。
「映秋姐(映秋姉さん)のもの、取っておいたの」
差し出された包みには、古い櫛と手鏡、何通もの手紙があった。
そして、一枚の銅貨。
予澄は息を止めた。
一九一八年十月、初めて出会った夜。
自分の明日の値段だと言って、彼女に渡したものだった。
「……まだ、持っていたんですね」
「姐姐(お姉さん)、絶対に使わなかった。お金に困っても、それだけは」
小蘭は唇を噛んだ。
「私があそこに戻らなければ、映秋姐は……」
予澄は首を振った。
「あなたが生きていて、よかった」
「でも……」
「映秋も、きっとそう言います」
それだけは確信があった。
あの人は、口が悪くて、意地っ張りで、他人の幸福を自分のことのように喜ぶ、どうしようもなく優しい女だった。
小蘭が泣き出した。
予澄は銅貨を握った。
たった一枚で買った明日が、こんなにも高くつくとは思わなかった。
*
廊下の奥で、琵琶の音が止まった。
蘇雪蓮が、茶を二つ運んできた。
彼女の髪には、銀の梅の簪が挿されていた。
「映秋はね、あなたのことを、よく話していたの」
「……悪口でしょう」
「ええ。字が汚いとか、融通が利かないとか、眼鏡が似合わないとか」
「最後は初耳です」
雪蓮は小さく笑った。
「でも、あなたが来る日は、朝から機嫌がよかった」
予澄は俯いた。
「……僕は、あの人をここから連れ出すつもりでした」
小さな家を借りるつもりだった。
彼女が朝寝坊をしても怒らず、焦げた粥を作っても笑い、いつか自分の書いた本を、あの美しい字で容赦なく添削してもらうつもりだった。
そんな未来を、彼は本気で信じていた。
「……僕は、何ひとつ守れなかった」
雪蓮はしばらく黙っていた。
「私にもね、帰りを待っていた人がいるの」
予澄が顔を上げる。
「その人も、もう帰ってこない」
彼女は簪に触れた。
六月九日、学生たちを守ろうとして命を落とした軍人がいたことを、予澄は知っていた。
雪蓮は静かに微笑んだ。
「だから、簡単に慰めたりしないわ。ただ……映秋があなたと過ごした日々まで、不幸だったことにしないで」
予澄の目から、初めて涙が落ちた。
*
一九二〇年、春。
予澄は印刷所で働き始めた。
学生時代より字が綺麗になったと、同僚に褒められることが増えた。
「方さん、どこで習ったんです?」
「……厳しい先生がいたんです」
「そんなに?」
「ええ。革命より先に筆跡を正せと」
同僚が笑った。
予澄も笑った。
笑えるようになるまで、随分かかった。
ある日、印刷所の近くで、幼い少女が男に腕を引かれているのを見た。
借金の代わりに奉公へ出すのだという。
少女は泣いていなかった。
泣いても無駄だと、もう知っている顔だった。
予澄は男の前に立った。
「その子を、どこへ連れていくんですか」
「おまえには関係ない」
「あります」
予澄は、かつて映秋が書いた声明文を思い出した。
――私たちにも、明日を生きる権利がある。
「その子にも、名前があるでしょう」
男が顔をしかめる。
予澄は少女の前に膝をついた。
「……君の名前を、教えてくれる?」
少女は戸惑いながら、小さな声で答えた。
予澄はその名前を、決して忘れまいと思った。
少女の境遇を変えるには、まだ長い時間が必要だった。
彼は印刷所の仲間や慈善団体に相談し、少女が学べる場所を探し始めた。
世界は、一人の善意で簡単に変わるほど優しくなかった。
それでも何もしない理由にはならなかった。
*
その年の秋。
予澄は再び紅月楼を訪れた。
修繕された廊下には新しい木の匂いが残り、窓の外では紅い灯籠が揺れていた。
「方さん、またお茶?」
小蘭が笑う。
「はい。二つお願いします」
「……相変わらず、変な人」
「よく言われます」
彼女は何も聞かず、茶碗を二つ並べた。
予澄はかつて映秋が座っていた椅子を見つめた。
そこには誰もいない。
けれど、今にも聞こえてきそうだった。
――字が汚い。
――革命家さまは、本当に恋が下手。
予澄は懐から一枚の銅貨を取り出した。
そして、白い花の髪飾りを、その隣に置いた。
火に焼かれた花弁は、あの日のままだ。
「……映秋」
彼は紙を広げ、筆を取った。
『明日、あなたに会いたい。』
書き終えてから、苦笑する。
「……また、明日ですね」
筆を動かし、書き直した。
『今日も、あなたに会いたかった。』
以前よりずっと整った文字だった。
彼女なら、きっと褒めてくれただろう。
いや、まず一つくらい悪口を言うに違いない。
予澄は小さく笑った。
そして、ようやく声を上げて泣いた。
*
夜が更け、紅月楼の灯りが消えていく。
予澄は冷めた茶を飲み干し、立ち上がった。
向かいの茶碗には、まだ茶が残っている。
「……映秋」
誰もいない椅子に、微笑みかけた。
「明日も、生きます」
あの日のように、必ず来るとは言わなかった。
もう、彼女を待たせることもできない。
それでも彼は、彼女が欲しがった明日を、一日ずつ生きていくつもりだった。
外へ出ると、上海の街には新しい朝を待つ人々がいた。
予澄は歩き出した。
明日を嫌っていた女が、ようやく明日を好きになった。
その翌日に、彼女は死んだ。
そして、明日を信じていた青年だけが、彼女のいない明日を、これから何十年も生きていく。
――国には未来が戻った。けれど、彼の未来にだけ、彼女は二度と帰ってこなかった。
――完――




