↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
4/4

第四話 あなたのいない明日を、誰が生きる。

一九一九年、六月二十八日。上海(シャンハイ)。


方予澄(ファン・ユーチョン)は、国が勝った日に、恋人の葬式を思い出していた。


中国代表団が、ヴェルサイユ条約への署名を拒否した。

北京(ベイジン)で始まった五四運動は、上海の学生、商人、労働者を巻き込み、ついに国の決断を動かしたのだ。


「方! 僕たちの声が届いたぞ!」


仲間が肩を叩く。予澄は微笑んだ。


「……ああ。よかった」


嘘ではなかった。


ただ、あの日から何を喜ぶにも、心のどこかに一人分の空席ができていた。


*


紅月楼(ホンユエロウ)の裏手には、まだ焦げた柱が残っていた。


唐映秋(タン・インチウ)が死んで、二十三日。


表の楼では客が笑い、女たちが歌い、帳場では銅貨の音がしている。

彼女がいなくても、世界は驚くほど律儀に動いていた。


「……方さん」


小蘭(シャオラン)が彼を迎えた。腕には火傷の痕が残っている。


「映秋姐(インチウジエ)(映秋姉さん)のもの、取っておいたの」


差し出された包みには、古い櫛と手鏡、何通もの手紙があった。


そして、一枚の銅貨。

予澄は息を止めた。


一九一八年十月、初めて出会った夜。

自分の明日の値段だと言って、彼女に渡したものだった。


「……まだ、持っていたんですね」


「姐姐(ジエジエ)(お姉さん)、絶対に使わなかった。お金に困っても、それだけは」


小蘭は唇を噛んだ。


「私があそこに戻らなければ、映秋姐は……」


予澄は首を振った。


「あなたが生きていて、よかった」


「でも……」


「映秋も、きっとそう言います」


それだけは確信があった。


あの人は、口が悪くて、意地っ張りで、他人の幸福を自分のことのように喜ぶ、どうしようもなく優しい女だった。


小蘭が泣き出した。

予澄は銅貨を握った。


たった一枚で買った明日が、こんなにも高くつくとは思わなかった。


*


廊下の奥で、琵琶(ピーパー)の音が止まった。


蘇雪蓮(スー・シュエリエン)が、茶を二つ運んできた。

彼女の髪には、銀の梅の簪が挿されていた。


「映秋はね、あなたのことを、よく話していたの」


「……悪口でしょう」


「ええ。字が汚いとか、融通が利かないとか、眼鏡が似合わないとか」


「最後は初耳です」


雪蓮は小さく笑った。


「でも、あなたが来る日は、朝から機嫌がよかった」


予澄は俯いた。


「……僕は、あの人をここから連れ出すつもりでした」


小さな家を借りるつもりだった。


彼女が朝寝坊をしても怒らず、焦げた粥を作っても笑い、いつか自分の書いた本を、あの美しい字で容赦なく添削してもらうつもりだった。


そんな未来を、彼は本気で信じていた。


「……僕は、何ひとつ守れなかった」


雪蓮はしばらく黙っていた。


「私にもね、帰りを待っていた人がいるの」


予澄が顔を上げる。


「その人も、もう帰ってこない」


彼女は簪に触れた。


六月九日、学生たちを守ろうとして命を落とした軍人がいたことを、予澄は知っていた。


雪蓮は静かに微笑んだ。


「だから、簡単に慰めたりしないわ。ただ……映秋があなたと過ごした日々まで、不幸だったことにしないで」


予澄の目から、初めて涙が落ちた。


*


一九二〇年、春。


予澄は印刷所で働き始めた。

学生時代より字が綺麗になったと、同僚に褒められることが増えた。


「方さん、どこで習ったんです?」


「……厳しい先生がいたんです」


「そんなに?」


「ええ。革命より先に筆跡を正せと」


同僚が笑った。

予澄も笑った。

笑えるようになるまで、随分かかった。


ある日、印刷所の近くで、幼い少女が男に腕を引かれているのを見た。


借金の代わりに奉公へ出すのだという。


少女は泣いていなかった。

泣いても無駄だと、もう知っている顔だった。


予澄は男の前に立った。


「その子を、どこへ連れていくんですか」


「おまえには関係ない」


「あります」


予澄は、かつて映秋が書いた声明文を思い出した。


――私たちにも、明日を生きる権利がある。


「その子にも、名前があるでしょう」


男が顔をしかめる。

予澄は少女の前に膝をついた。


「……君の名前を、教えてくれる?」


少女は戸惑いながら、小さな声で答えた。

予澄はその名前を、決して忘れまいと思った。


少女の境遇を変えるには、まだ長い時間が必要だった。

彼は印刷所の仲間や慈善団体に相談し、少女が学べる場所を探し始めた。


世界は、一人の善意で簡単に変わるほど優しくなかった。

それでも何もしない理由にはならなかった。


*


その年の秋。

予澄は再び紅月楼を訪れた。


修繕された廊下には新しい木の匂いが残り、窓の外では紅い灯籠が揺れていた。


「方さん、またお茶?」


小蘭が笑う。


「はい。二つお願いします」


「……相変わらず、変な人」


「よく言われます」


彼女は何も聞かず、茶碗を二つ並べた。

予澄はかつて映秋が座っていた椅子を見つめた。


そこには誰もいない。

けれど、今にも聞こえてきそうだった。


――字が汚い。

――革命家さまは、本当に恋が下手。


予澄は懐から一枚の銅貨を取り出した。


そして、白い花の髪飾りを、その隣に置いた。

火に焼かれた花弁は、あの日のままだ。


「……映秋」


彼は紙を広げ、筆を取った。


『明日、あなたに会いたい。』


書き終えてから、苦笑する。


「……また、明日ですね」


筆を動かし、書き直した。


『今日も、あなたに会いたかった。』


以前よりずっと整った文字だった。

彼女なら、きっと褒めてくれただろう。

いや、まず一つくらい悪口を言うに違いない。


予澄は小さく笑った。

そして、ようやく声を上げて泣いた。


*


夜が更け、紅月楼の灯りが消えていく。

予澄は冷めた茶を飲み干し、立ち上がった。


向かいの茶碗には、まだ茶が残っている。


「……映秋」


誰もいない椅子に、微笑みかけた。


「明日も、生きます」


あの日のように、必ず来るとは言わなかった。

もう、彼女を待たせることもできない。

それでも彼は、彼女が欲しがった明日を、一日ずつ生きていくつもりだった。


外へ出ると、上海の街には新しい朝を待つ人々がいた。

予澄は歩き出した。


明日を嫌っていた女が、ようやく明日を好きになった。


その翌日に、彼女は死んだ。

そして、明日を信じていた青年だけが、彼女のいない明日を、これから何十年も生きていく。


――国には未来が戻った。けれど、彼の未来にだけ、彼女は二度と帰ってこなかった。


――完――

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。