第二話 革命家さまは、恋が下手。
一九一九年、五月。上海。
唐映秋は、恋をすると女が馬鹿になるという俗説を、長らく鼻で笑っていた。
ところが最近、紅月楼の門が開くたびに顔を上げてしまう。
しかも待っている相手は、金もなければ色気もなく、国家の未来を憂えるあまり自分の試験成績まで危うくしている学生だ。
「……重症ね」
鏡に向かって呟くと、背後から声がした。
「誰が?」
「この国」
「それは確かに」
振り返れば、方予澄が立っていた。
「女の部屋に入るなら、まず声をかけなさい」
「かけました」
「聞こえなかったわ」
「三回ほど」
「……それは私が悪かったわね」
予澄は笑った。二十一歳のくせに、笑うとひどく幼い。
その手には、刷りたての紙が握られていた。
欧州の大戦は前年十一月に休戦を迎えた。だが戦勝国であるはずの中国には、講和会議で山東の旧ドイツ権益を日本へ移すという知らせが届いた。
五月四日、北京で学生たちが抗議に立ち上がる。
その怒りは、上海にも広がりつつあった。
「僕たちも声を上げます」
予澄は紙を差し出した。
映秋は一読して眉を寄せる。
「……予澄」
「はい」
「革命の前に、あなたの字を救済しましょう」
「そこまで酷いですか」
「このまま配ったら、敵より先に味方が解読を諦めるわ」
彼女が筆を取ると、予澄は素直に隣へ座った。
肩が触れそうな距離で、美しい文字が紙の上に並んでいく。
「映秋は、どうしてそんなに字が上手なんですか」
「売られる前、母に習ったの」
筆先が一瞬だけ止まる。
「母はね、字を覚えれば、どこへでも行けるって言ったわ」
「……そうですか」
「十年経っても、まだここだけど」
予澄は慰めなかった。
ただ、彼女が書き終えた紙を大切そうに受け取った。
「いつか、あなたの字で書いた本を読みたいです」
「私が書くなら、題名は『馬鹿な学生の育て方』ね」
「売れますか?」
「本人が一冊買ってくれれば十分よ」
予澄は真顔で頷いた。
「必ず買います」
映秋は笑った。
そんな約束ばかり増えていくのが、少し怖かった。
*
その夜、予澄は小さな紙包みを差し出した。
中には白い花をかたどった髪飾りが入っていた。
「……これ、私に?」
「はい。似合うと思って」
「誰に選んでもらったの?」
「友人です」
「その友人、恋人は?」
「いません」
「でしょうね」
予澄が肩を落としたので、映秋は吹き出した。
安物の髪飾りだった。けれど、花弁の一枚一枚が丁寧に削られている。
彼女が髪に挿すと、予澄は言葉を失った。
「……どう?」
「綺麗です」
「それだけ?」
「とても、綺麗です」
「語彙が貧しいわね、革命家さま」
「まだ革命家ではありません」
「じゃあ、恋人は?」
青年が固まった。
映秋は笑いながら、胸の奥が痛むのを感じた。
冗談にすれば、どんな願いも傷つかずに済む。
そう信じてきた。
*
五月の終わり、学生たちの抗議は広がり、予澄が紅月楼を訪れる夜は減った。
代わりに手紙が届く。
『今日は仲間と集会を開きました』
『印刷所が協力してくれました』
『雨に濡れましたが、風邪は引いていません』
最後の報告だけは毎回欠かさない。
「恋文というより、生存報告ね」
廊下で蘇雪蓮が笑った。
彼女の髪には、銀の梅の簪が揺れていた。
「でも、待っているんでしょう?」
「字の練習が進んだか気になるだけよ」
「ふふ。私も、帰りを待っている人がいるの」
雪蓮は簪に触れ、遠くを見るように微笑んだ。
映秋はその横顔を見つめた。
この楼の女たちは、誰かを待つときだけ、ほんの少し自由になる。
それが幸せなのか残酷なのか、まだわからなかった。
*
六月二日の夜、予澄は頬に擦り傷をつくって現れた。
「……誰にやられたの」
「警官と少し揉めまして」
映秋は黙って彼の腕を掴み、部屋へ引き入れた。
「座って」
「大した傷では」
「座りなさい」
濡らした布を傷に当てると、予澄が小さく顔をしかめた。
「痛い?」
「少し」
「よかった。まだ痛みがわかるのね」
映秋の指先は震えていた。
「あなた、国を変えるつもりで、自分の命を粗末にしてどうするの」
「……映秋」
「私をここから出したいって言ったでしょう」
予澄は息を呑んだ。
「だったら、帰ってきなさいよ」
彼女の声が掠れた。
「私はもう、誰かの帰りを待つのが嫌なの」
青年はその手を包み込んだ。
「僕は、あなたと生きたいです」
映秋は目を伏せた。
「……ずるい人」
「何がですか」
「そんなこと、真面目な顔で言うところ」
予澄は彼女の額に口づけた。
映秋は襟を掴み、逃がさないように唇を重ねる。
不器用な接吻だった。
触れた途端に息を止める青年が可笑しくて、彼女は唇を離して笑った。
「……息をしなさい、革命家さま」
「初めてなので」
「知ってるわ」
映秋は彼の頬を撫でた。
男に触れられることには慣れていた。
けれど、自分から触れたいと思ったのは、これが初めてだった。
予澄が彼女の名を呼ぶ。
「映秋」
その声だけで、十年間身につけた笑顔がほどけていく。
「……もう一度」
「映秋」
「違うわ。口づけのほう」
青年は真っ赤になった。
映秋は笑いながら目を閉じた。
*
帰り際、予澄はいつものように言った。
「明日も来ます」
「明後日でいいわ」
「なぜですか」
「明日は街が騒がしくなりそうでしょう。無理をしないで」
青年は少し考え、頷いた。
「では、必ず帰ってきます」
映秋は白い髪飾りに触れた。
「……約束よ」
彼が去ったあと、引き出しを開ける。
去年の秋にもらった銅貨が、一枚。
その隣に、予澄から届いた手紙を重ねた。
どれも字は相変わらず下手だった。
それでも彼女は、一通も捨てられなかった。
窓の外では、雨が降り始めていた。
映秋は白い花を髪から外し、掌に載せる。
花弁の一枚に、小さな傷があった。
いつか壊れてしまいそうな、頼りない飾り。
それでも彼女は、明日もこれを挿そうと思った。
――彼が帰ってきたとき、最初に見つけてもらえるように。
――第二話・了――




