第一話 あなたの明日は、いくらですか。
一九一八年、十月。上海。
唐映秋は、明日という言葉が嫌いだった。
明日には借金を返す。明日には迎えに来る。明日には、おまえを自由にしてやる。
紅月楼で十年働いて学んだのは、男の約束には期限があっても、女の待ち時間には終わりがないということだった。
「映秋、三番のお客が帰るってさ」
廊下から小蘭が顔を出す。
「帰してあげて。財布が空になった男ほど、愛を語りたがるもの」
「でも、また来るって」
「まあ。明日は雨ね」
小蘭が笑った。
二十三歳の映秋は、紅月楼では阿梨と呼ばれている。十三で父の借金のかたに売られ、以来、客の機嫌と懐具合を読むことだけは、どんな商人より上手くなった。
本名を呼ばれる機会は、ほとんどない。
それでも映秋は、誰よりよく笑った。
泣く女には慰めが必要だが、笑う女には誰も事情を尋ねない。そのほうが、ずっと楽だった。
「失礼します。紙と筆をお借りできますか」
その青年が現れたのは、夜の客足が落ち着いた頃だった。
丸眼鏡に擦り切れた学生服。端正な顔立ちをしているのに、真面目すぎる眉間の皺が、色気というものを見事に追い払っている。
「……ここ、何屋だと思ってる?」
「紅月楼です」
「正解。で、何を買いに来たの?」
「紙を」
「不正解」
青年は困惑した。
「では、紙を貸してくださる方のお時間を買います」
映秋は思わず吹き出した。
「女を買いに来て、紙しか見てない男は初めてよ」
「女性を買うつもりはありません」
「それ、ここの女に言うには最低の口説き文句ね」
青年は耳を赤くした。
方予澄。二十一歳。上海で学ぶ学生だという。
欧州では大戦が続いていた。中国も前年に参戦し、戦争の終わりが噂される一方、この国の行く末を案じる若者たちは、夜ごと議論を重ねていた。
「民衆にも、国の未来を考える権利があります」
予澄は借りた筆で、勢いよく文章を書き始めた。
映秋は肩越しに覗き込む。
「……字が汚い」
「内容を読んでください」
「読めたらね」
「そこまでですか」
「政治犯として捕まる前に、悪筆で捕まるわよ」
予澄は真剣に自分の字を見つめた。
その素直さがおかしくて、映秋はまた笑った。
*
「阿梨、その学生さん、まだいるの?」
帳場から玉蘭が顔を出した。
彼女の手には、細かな数字の並ぶ帳簿がある。
「紙を借りに来たんですって」
「奇遇ね。うちにも茶しか飲まない物書きが来るわ」
「変な男って、流行ってるの?」
「流行なら困るわ。商売にならないもの」
玉蘭は涼しい顔で茶代を記し、予澄へ視線を向けた。
「夢を書く紙なら、なおさら大切に使ってね」
そう言い残して去っていく彼女の横顔を、映秋は少しだけ見送った。
あの女も最近、誰かからの手紙を待っている。
紅月楼には、待つことに慣れた女ばかりいた。
*
夜更け、映秋は予澄の文章を読み終えた。
自由。教育。貧困。国の未来。
立派な言葉が、ひどい筆跡で並んでいる。
「……ねえ、学生さん」
「予澄です」
「予澄。あなた、本当に世の中を変えられると思う?」
「変えなければならないと思っています」
「それ、答えになってないわ」
映秋は紙を置いた。
「偉い人が間違えて、貧しい人が飢えて、女が売られる。そんな世の中が変われば、確かに素敵でしょうね」
「はい」
「でも、国が変わるまで、私はここで何人の男に笑えばいいの?」
予澄は黙った。
映秋は慣れた笑みを浮かべた。
「ほら。そういうことよ」
ところが青年は、逃げる代わりに彼女を見つめた。
「……あなたのお名前を、教えていただけますか」
「阿梨よ」
「それは、ここでのお名前でしょう」
映秋の笑みが止まった。
「本当の名前を知って、どうするの?」
「あなたの話を、きちんと聞きたいんです」
その答えは、あまりにも不器用だった。
「……唐映秋」
久しぶりに口にした名前は、思いがけず胸に痛かった。
予澄は小さく頷いた。
「映秋さん」
たった三文字を、壊れ物のように呼ぶ。
映秋は顔を背けた。
「……学生さんって、みんなそんなに面倒なの?」
「僕は、特にそう言われます」
「でしょうね」
笑いながら、なぜか泣きたくなった。
*
帰り際、予澄は懐を探った。
「お代を」
「茶代だけでいいわよ」
「ですが、長くお邪魔しました」
「じゃあ、余った分は次の紙代にして」
予澄は銅貨を一枚、机に置いた。
「……また来てもいいですか」
「お金があるなら」
「次も、あまりないと思います」
「正直すぎる男ね」
「それでも、あなたに会いたいんです」
映秋は言葉を失った。
この男は、国の未来を語るときより、よほど無防備な顔で女を口説く。
「……ねえ、予澄」
「はい」
「あなたの明日は、いくらなの?」
青年は銅貨を見た。
「今は、これだけです」
「安い未来ね」
「でも、僕が持っている全部です」
映秋は銅貨を指先で弾いた。
乾いた音が、紅い灯の下に響く。
「じゃあ、その明日を買ってあげる」
「……買う?」
「明日も来なさい。私が暇だったら、また話を聞いてあげる」
予澄の顔が明るくなった。
「必ず来ます」
「男の『必ず』ほど信用できないものはないのよ」
「では、信用できるまで来ます」
映秋は笑った。
「……本当に、変な人」
*
翌日、予澄は約束どおり現れた。
雨に濡れた眼鏡を拭きながら、息を切らしている。
「遅くなりました」
「まだ約束の時間も決めてないでしょう」
「でも、待たせたかもしれませんから」
映秋は呆れたように笑い、乾いた布を差し出した。
「……馬鹿ね」
青年は礼を言って、それを受け取った。
映秋は机の引き出しを開ける。
昨日の銅貨が、一枚。
客から受け取った金と混ぜず、そこにしまってあった。
自分でも理由はわからない。
ただ、あの一枚だけは使いたくなかった。
「映秋さん」
「何?」
「明日も、来ていいですか」
映秋は窓の外を見た。
雨の向こうで、街の灯りが滲んでいる。
「……好きにすれば」
青年が笑った。
その笑顔を見て、映秋は初めて思った。
明日が来るのも、案外悪くないかもしれない。
彼女はまだ知らなかった。
いつか、その銅貨一枚が、どんな大金よりも手放せないものになることを。
そして、自分が生まれて初めて明日を待ち望むようになったとき、その明日が誰のために訪れるのかを。
――第一話・了――




