どうせ忘れてたくせに
「……何だよこいつは、気持ち悪い」
旧『2-2』教室の荒れ果てた空間で雷光に照らし出された水無瀬の姿を見たエヴリンは静かに、だが確かな張り付く嫌悪感を滲ませながら呟いた。
彼女は両手剣――フランベルジュの切っ先をゆっくりと水平に向け腰を程よく落とす。歴戦の勘が目の前の異形から凄まじい威圧感を感じ取っているのだ。いつでも敵の攻撃を受け流し、即座に反撃に転じられるよう、完全な戦闘態勢に入る。
否が応でも幽鬼のように佇む黒装束の人物が背負う『白銀の大太刀』が視界に入る。あれほど巨大で、拵えは不釣り合いなほど神聖な輝きを放つ得物でこれから自分たちを叩き斬るつもりなのは明白だった。
「シャルロット」
「はい」
幸輝の短く、だが信頼に満ちた声に応え白銀の髪を持つ少女・シャルロットは一瞬にして美しい細身の剣へと姿を変え彼の右手に収まった。
彼女は異世界において魔王を討伐するという大義のために人間としての生を奪われ、聖剣へと変えられた悲劇の少女だった。その身を剣に変えて一千年の永きに渡り孤独な台座で待ち続け、そして漸く『運命の主人』である幸輝と出会い宿命を果たして解き放たれたのだ。彼女にとって幸輝は、単なる主ではなく人生を取り戻してくれている自身の全てを捧げる絶対的な存在だった。
「……ねぇ、幸輝。あれの手を見て……」
魔法使いの愛花が震える声で杖の先を向けた。
「……いや、まさかな。あいつが水無瀬があんな姿になるなんて……理性のない堕ちた化け物なんてあいつから程遠い存在だぞ。あいつはもっと臆病で誰かの後ろに隠れてるような奴だったはず」
幸輝もまた信じられないものを見る目で目の前の黒衣の人物を見つめる。
「でも、背丈も一緒であんなに特徴的な白髪頭のデカ女。そして何より、右手の親指の付け根に付いているあの黒子は……間違いないわ」
「……一回、呼びかけるか?」
「やってみる? もし見境なく攻撃されても、一回くらいなら私たちが防ぐわ。どうする?」
「やるか。俺も……できれば、水無瀬を傷付けたくない」
幸輝と愛花は武器の構えを僅かに解き、その得体の知れない化け物――かつての親友水無瀬と思われる堕ちし魔物へと呼びかけることにした。
「では、私は幸輝様の側でお守りします。ご安心を」
「それには及ばないだろうが、ありがとうアイリス」
すかさずいつでも援護が出来る位置へと割り込めるように、白衣の修道女アイリスがハンドアクスを握り身構える。彼女を含めこの魔王討伐パーティーは言葉では油断を見せつつも筋肉の一本、魔力の一滴たりとも弛緩させてはいなかった。
そんな数多の修羅場を潜り抜けた歴戦の勇者たちの警戒を知ってか知らずか、堕ちし水無瀬はべたり、べたりと水たまりの中から泥を引きずるような足取りで教室の床を歩いている。
その姿には一切の知性も理性も感じられない。幸輝と愛花が知っていた親友『白神水無瀬』という人間の形をした温かさや気弱だが優しい人間性は完全に喪われていた。この這いずるような謎の怪異を見て勇者たちの中で戸惑いが大きくなる。
だが間違ってしまう訳がない。彼女はどう見ても、あの日の水無瀬その人だ。
確信を抱いて幸輝達は幼馴染にして、かつての大切な親友である彼女へと明るく話しかけた。
「水無瀬、久しぶりだな! 元気にしてたか?」
「みーな! 私だよ、愛花だよ!? 覚えてる?」
その声に対し気付いた水無瀬は威嚇する野犬のような、低くねじれ濁った唸り声をあげた。
まるで動物が群れの仲間かどうかを確認するように能面をつけた顔を不気味なほど近くまで寄せて、幸輝たちの匂いを嗅ぐ。
まるで犬か、それとも悍ましい怪物か。
手入れがされていない皺まみれの市販品の黒スーツからは死臭に似た甘ったるい薫りと古びた血のような鉄の匂いが鼻を突く。そして般若の面の下から漏れ出す呼吸は、生者のものとは到底思えないほど淀みきっていた。
「懐かしいだろ水無瀬、この教室は。俺達は、この校舎で色んな事を経験したんだよな。また、お前と一緒に――」
「みーなも女の子らしいって何なのか、いっつも研究していたんだっけ? 懐かしいよね~、あの頃は……確か」
だが、二人の平和的なアプローチはただ致命的な膠着状態を齎しただけであった。
水無瀬は彼らの言葉を聞いた瞬間、みるみるうちに苦痛のうめき声をあげ始めたのだ。
仮面の下からダラダラと大量の涙と汗と、そして抑えきれない唾液が混ざり合って流れ落ちる。彼女の屈強な身体がひどい寒気に襲われたようにガクガクと震え始めた。
そして――限界まで張り詰めた弓が、番えた矢を唐突に放つように。
水無瀬は背中の大太刀を抜き放ち、眼前の勇者たちを物理的に『斬り伏せる』べく音の壁を容易く超えて、苦痛と狂気に満ちた白刃の星を淀みなく澄み切らせて降らせた。
「あっぶねえぞ幸輝!うかうか油断するんじゃねぇ!!」
「危なかったですね愛花、間に合って良かった」
大太刀の凶刃が二人を両断する直前。
エヴリンの大剣とアイリスのハンドアクスが交差して間に割り込み、その苦痛と悲劇を招く重烈な一撃を弾き返した。
「水無瀬!?どうしたんだ!!」
「しっかりしてみーな!意識を戻して!!」
激しい金属音と共に弾き返された反動で水無瀬の身体は宙を舞った。もんどり打って床を転がり、そのままの勢いでひっくり返っていた教壇の角に頭部を勢い良くぶつけて停止した。
「気絶したか!?」
「いいえ、まだです。来ますよエヴリン!!」
アイリスの警告と同時。
水無瀬は人間の体に存在している筈の関節構造を完全に無視するかのように、不自然に身体をくねらせてすっくと立ち上がった。まるで骨のない巨大な白蛇のような、悍ましい起き上がり方だった。
彼女の手には先程抜き放たれたばかりの煌めく大太刀が握られている。
太く、厚く、そして目を開けていられないほど白き神威の光を讃えた神聖なる刀身。そこから放たれるのは、神聖さとは真逆のドス黒く濁った殺意と決意。
楽器の如く美しく奏でるべき流麗な風切り音はそこにはなく、ただ力任せに空気を引き裂く暴力的な轟音だけが教室を蹂躙した。
「■■■■■ーっ!!!」
「何だ!?」
「速いっ!?」
醜く、巨大な、それでいて本能的な怖気を走らせ、聞く者の魂を無条件に萎縮させる獣のような咆哮。それは、かつて『愛らしい存在』であった少女の口から発せられたとは到底信じがたい完全な怪物の絶叫だった。
「■■■ー!」
――無理矢理に、デタラメに。
水無瀬は両手で扱うべき1.5メートルの大太刀を片手で握りしめ、力任せに振り回して床へと叩き付けた。旧校舎の長年手入れされていなかった腐りかけた木材が爆発したように飛び散り、鋭い破片が凶器となって舞い散る。
同時に大太刀は床板に深々と突き刺さり、水無瀬自身の身動きを完全に封じてしまった。
誰の目にも明らかな、致命的すぎる隙。
「やあああああ!!」
歴戦の戦士であるエヴリンがその巨大な隙を見逃すはずがなかった。
フランベルジュを構え、神速の刺突を水無瀬の胴体へと放つ。
「■■■■■■■■ーーー!!!!」
「うわっ、熱っ!?」
エヴリンの剣が突き刺さる直前。
水無瀬の全身の毛穴から超高圧の水蒸気が爆発的に噴出した。凄まじい熱量にエヴリンは顔をしかめて後退する。
咄嗟に放った水蒸気によって難を逃れた水無瀬だったが、それでも床に突き刺さった大太刀は抜けず寧ろ自分の放った蒸気と熱で周囲の木材が膨張しより深く噛み込んで深刻な状況に陥りつつあった。
「てあああ!!」
エヴリンが怯んだ隙を突き、背後に回り込んだアイリスが動く。
彼女は自身に『水蒸気による熱傷だけを無効化する』高度な防護結界を瞬時に張り巡らせ、水無瀬の死角である背後からハンドアクスを無慈悲に振り下ろした。
だが、その一撃は水無瀬の皮膚に達する直前で目に見えない強固な『何か』に弾かれた。彼女の攻撃は、水無瀬の無傷の肉体に傷一つ付けることは能わず、ただ注意を引いただけで終わった。
「■■■■■!!!」
「くっ……ミナセという方は、これ程までに強い方なのですか?幸輝様!?」
「多分だが、俺達が居なかった間に日本の組織か何かに細工をされたんだろう! クソっ、どこの誰だか知らないが水無瀬をよくも、こんな兵器みたいに!!」
「■■■■ー! ■■■■■■■■!!!!」
無理矢理に力ずくで大太刀を引き抜き、床板ごと破壊して漸く拘束から抜け出した水無瀬はそのままの勢いで水平に薙ぎ払いを放った。距離を取ろうとするエヴリンへと執拗に詰め寄る。
「■■■■■!!」
「下手くそ! 何処にも当たっちゃいないぞ!!」
「■■■!!」
「そこだ!!」
水無瀬は片手で大太刀を軽々と振るい、斜めにエヴリンの胴体を袈裟斬りにしようとした。
しかしその太刀筋はあまりにも単調で、かつ『急所を無意識に避けている』のが見え透いていた。当然当たるはずもなくエヴリンに容易く躱され、むしろカウンターを食らって追い詰められていくのは水無瀬の方だった。
水無瀬は敵からの反撃に対する防御行動を一切行わなかった。
切られ放題、殴られ放題である。
辛うじて無意識下で展開されている『龍鱗』と呼ばれる神域の結界がエヴリンの斬撃を物理的ダメージに変換する前に防いではいた。だがエヴリンの持つフランベルジュの圧倒的な質量と衝撃までは殺しきれず、水無瀬の骨格や内臓には、確実にダメージが蓄積され続けているはずだった。
「■■■■■■■■■!!!!」
「がっ! 重、過ぎんっ、だろっ……!!」
激しく身体を消耗させ内出血で吐血しながらも、水無瀬は奇妙なステップを踏み自流のデタラメな剣術を振るい続ける。決してエヴリンとの撃ち合いを止めようとはしなかった。
既に20合以上撃ち合った。体力無尽蔵のエヴリンでさえ額に汗を浮かべ、疲れの色を見せ始めている。
水無瀬の振るう大太刀はまるで鉛と金を混ぜ合わせたように異常なほど鈍重でありながら、神の力を宿しているが故に受け止める度にエヴリンのフランベルジュの刀身に目に見えない罅が入るような嫌な感覚を与え続けていた。
だが、それ以上に。
エヴリンの戦士としての本能が水無瀬の持つ『大太刀そのもの』に対して、警鐘を通り越した深刻な警告を発していた。
(なんだこの剣……!もし少しでも掠ったら、少しでも被弾したら私の命はない。一切の情容赦のない絶対的な『罰』が待ち受けている……っ!)
直感でそれを悟ったエヴリンの剣筋に、僅かな迷いが生じる。睨み合いが起きると水無瀬は直ぐ様身体のバランスを取り戻す為に肩の関節をバリゴリッ、と鳴らし始める。
「エヴリン! 伏せてくださいっ!!」
膠着を破ったのは再びアイリスだった。
背後に回り込んだ彼女がハンドアクスを両手で構え、再度渾身の力を籠めて斬りかかる。
今度の攻撃は物理的な一撃ではない。霊属性に対する最強の『浄化魔法』を限界まで籠めて放たれる、対アンデッド・対洗脳用の斬撃である。
もし水無瀬の魂が何者かによって改竄され、あるいは悪しき呪いによって行動を書き換えられているのだとしたら、この浄化の光は敵の意図する全ての干渉を打ち消し彼女の自我を取り戻させることができるはずだ。
ガツンッ!!
激しく硬い金属を殴打したような音が廃校舎全体に鳴り響いた。
落雷の轟音でさえ掻き消すほどの激しい衝撃音が教室内に残されていた机や椅子を一瞬にして木っ端微塵に消し飛ばす暴風へと成り果てる。
そして、圧倒的な光量と共に水無瀬の肉体に対する『浄化』が開始された。
「■■■■■■■■■■ー!!!!!」
水無瀬の口から今までで最も凄絶な悲鳴が上がる。
(何で!?これだけの出力で浄化魔法をかけたのに……効いていない?まさか!この人は洗脳などされていない!? この狂気は、呪いではなく――!)
「離れろアイリス!!」
アイリスが驚愕に硬直したすんでのところで幸輝が間に飛び込んだ。
浄化の光を強引に振り払って反撃に出た水無瀬の大太刀を幸輝が鉄の剣で咄嗟に受け止める。
だが、その神の膂力は凄まじく二人は纏めて壁際まで弾き飛ばされてしまった。
「大丈夫かアイリス!!」
「は、はい!大丈夫ですが幸輝様、彼女は……彼女は悪しき力による改造や洗脳などはされておりませんでした!!」
「どういう事だ?じゃあ、どうして水無瀬はあんな化け物に……」
勇者パーティーが体勢を立て直すために距離を取ったのを確認すると水無瀬は左手を腰へと当て、重い大太刀を右肩に担ぐようにして構えた。
それはあまりにもわざとらしく、あまりにも不格好な、全身の隙を晒け出した構えだった。胴を守る術を完全に捨て去り、がら空きにして相手の攻撃を誘っているのは素人の目にも明らかだった。
『相手にわざと攻撃させ、その隙を突いてカウンターを狙う』――そういう剣術の手法があることは長い旅路で誰もが知っている事だ。
だが水無瀬のそれはカウンターの準備すらできていない、ただの『自死の誘発』にしか見えなかった。
そしてこの短くも奇妙な牽制と膠着状態は、突如として無理矢理に打ち砕かれた。
「ごめんねみーな!こうするしかないから!!」
愛花の悲痛な叫びと共に魔法が発動する。
気がついた瞬間には既に水無瀬の巨体は完全に拘束されていた。
彼女の足元から現れた見えない魔力の綱が蛇のように全身に絡みつき、微動だにできない様にして縛り上げる。野獣のように暴れる彼女の肉体へ光の綱が徐々に食い込み、ギリギリと引き締められていく。
「■■■■■■■■■■■■ーっ!!!!!!」
藻掻き、叫び、持てる神気の全てを放出して結界を破ろうとする水無瀬。
だが、レベルカンストを果たした大魔導士である愛花の拘束魔法の前では魔法の理を無視したただの暴力は無情にも全てかき消され、何も意味をなさない。
「水無瀬っ!!」
幸輝が完全に動きを封じられた水無瀬の正面へと躍り出る。彼は水無瀬の顔を隠す忌まわしい般若の面に向けて白銀の聖剣・シャルロットを振り抜いた。
刃は水無瀬の皮膚を一切傷つけることなく、仮面だけを真っ二つに切り裂く。
割れた面が床に落ち、その中から隠されていた『水無瀬の形相』が白日の下にさらされた。
「なっ……!?」
「これは……」
面の下の顔を見た瞬間勇者パーティーの全員が息を呑み、言葉を失った。
顔の形が、崩れていた。
物理的に破壊されているのではない。感情の許容量を超えた狂気と絶望によって、筋肉が壊れきるほどに激しく引き攣っていたのだ。
右目は完全に焦点を失って白濁し、左目はあらぬ方角へと向き瞼と額は焼け爛れて皮膚が剥がれている、口は笑みと悲鳴を同時に作ろうとして頬肉を抉るように裂けさせている。鼻筋は歪み、ダラリと垂れ下がった舌が中からはみ出し、とめどなく涎と血を垂らしていた。
かつて女子高生であった頃の面影を残す、少し頼りないが優しかった美貌は跡形もなく消し飛んでいた。
そこにあるのは、死肉そのもの。
いやかつて『白神水無瀬であった』ものが自らの意志で自らの尊厳を徹底的に辱め、破壊し尽くしたようなあまりにも凄惨で直視に耐えない有様だった。
「みーな……あんた……!!!」
驚いた愛花が両手で口を覆い、泣き崩れる。
「すまない水無瀬、俺がもう少し速く戻れていたら……こんな事には……!!」
幸輝が自責の念に顔を歪め、拳から血が滲むほど強く握りしめた。
「……なんと、むごい」
アイリスが十字を切り、エヴリンは居たたまれずに目を逸らす。
誰もがこの世界に取り残され変わり果てた憐れなる少女の姿に絶望し、悲劇に打ちひしがれていた。
だが。
ただ一人。
幸輝の手に握られた白銀の聖剣――人間の本質を見抜く目を持つシャルロットだけが、その『凄惨な狂気』の奥底に隠された真実を見破っていた。
「いつまでご主人様の前で、悲劇の狂人の真似をされるのですか?」
凛とした、しかし絶対的な冷酷さを伴う少女の声が、幸輝の手元から響いた。
「水無瀬さま。あなたのその『私が全てを背負って狂ってあげました、帰る場所を守っていたから褒めてください』という安い三文芝居。あまりにも無様極まりないので、そろそろ私も苛立ちが募りましてよ?」




