第5章:見えない境界線
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FC富士宮戦での劇的な同点劇から1ヶ月。浜松ビッグカイトFCは怒濤の進撃を続けていた。
覚醒した立花蓮を中心にチームは文字通り機能し始め、村瀬コーチの戦術が浸透した守備陣はリーグ最少失点を記録。気がつけば順位はJFLの3位にまで跳ね上がっていた。
「相馬GM! 今日の分の『市民スポンサー』の契約書です! それと、次のアウェイ戦の応援バスツアー、定員が10分で埋まりました!」
フロントオフィスに、田島の弾んだ声が響く。かつて頑なだった古参スタッフは、今や誰よりも熱心に新しい施策を回す右腕となっていた。
「ありがとうございます、田島さん。この調子なら、目標のリーグ2位以内(J3昇格圏)も現実味を帯びてきましたね」
恒一が笑顔で応えたその時、社長室のドアが重々しく開いた。
「……恒一、ちょっといいか」
大橋が青ざめた顔で手招きしている。その手には、Jリーグ事務局からの公印が押された一通の封筒があった。
社長室に入り、大橋が差し出した書類に目を落とした瞬間、恒一の心臓が冷たく収縮した。
「『J3スタジアム基準不適合による、交付保留』……? どういうことだ大橋」
「スタジアムの夜間照明だよ」
大橋は頭を抱え、机に突っ伏した。
「J3に昇格するためには、ホームスタジアムの照明が『1500ルクス以上』というJリーグ基準を満たしていなきゃならない。うちのは、現状その半分にも満たないんだ」
「改修にかかる費用は?」
「……最低でも、8000万円。しかも、Jリーグの最終審査がある9月末までに工事の目処を立て、予算証明を出さなきゃ、たとえリーグ戦で1位になろうが『J3昇格権は剥奪』される」
8000万円。商店街の1口数万円の市民スポンサーをどれだけ集めても、到底届かない巨額の壁だった。
時計の針は、すでに7月半ばを指している。残された時間は、わずか2ヶ月しかなかった。
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「大人の事情ってやつか。くだらねえな」
夜のグラウンド。居残りでフリーキックの練習をしていた立花蓮が、恒一から事情を聞いて吐き捨てた。
「俺たちがピッチでどんだけ血反吐吐いて勝っても、カネとスタジアムがなきゃ上にいけないのかよ。結局、サッカーはビジネスか」
立花の足元から放たれたボールは、綺麗な弧を描いて夜のゴールネットに突き刺さった。しかし、暗いスタジアムの照明のせいで、その軌道は途中で見えなくなる。
「ビジネスだからこそ、限界があるし、可能性もあるんだ」
恒一はネットからボールを拾い上げ、立花に投げ返した。
「お前が泥にまみれて10番の価値を証明したんだ。今度は俺が、経営陣としてGMの価値を証明する番だ。お前たちの勝利を、絶対に無駄にはさせない」
翌日から、恒一の本当の「死闘」が始まった。
8000万円という巨額を2ヶ月で集めるため、恒一はかつて東京で培ったネットワークをフルに活用し、あらゆる企業へプレゼンに回った。しかし、返ってくるのは冷たい返答ばかりだった。
「J3に上がるかどうかも分からない地方クラブに、今このコロナ禍で数千万の投資はできない」
気がつけば8月も終わりを迎えようとしていた。焦燥感だけが募り、恒一の睡眠時間は削られていく。東京で店をすべて失った時の、あの冷たい絶望の足音が、再び後ろから近づいてくるような恐怖を感じていた。
「相馬GM、顔色が最悪ですよ」
遠征に向かうチームバスの出発前、監督の鷹宮が恒一の前に立った。
「現場のことは俺と村瀬に任せろ。お前はフロントの監督だろ。監督がそんな死にそうな顔してたら、選手が迷うぞ」
「……すまない。だが、時間が足りないんだ」
「風を待つな、相馬」
鷹宮は恒一の胸を拳で軽く叩いた。
「風が吹かないなら、自分から走って風を起こせ。お前が俺たちに教えてくれたことだろ」
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「自分から走って、風を起こす……」
オフィスに戻った恒一は、デスクに広げられた浜松の地図と、これまでの市民スポンサーの名簿を見つめていた。
これまでは「大口の企業」か「個人のファン」か、二者択一で考えていた。しかし、その中間があるのではないか。浜松には、世界に誇る「ものづくり」の中小企業、町工場が無数にある。
恒一は田島を呼び寄せた。
「田島さん、浜松市内の町工場や中小企業、何社ありますか?」
「え? 数千、いや万単位でありますが……それが何か?」
「8000万円を1社から集めるのは不可能だ。でも、1社40万円なら、200社で届く。町工場に『ビッグカイトFC・技術パートナー』になってもらうんだ」
恒一が目をつけたのは、単なる寄付ではなく、地元の町工場の「技術」や「製品」をクラブの活動を通じてPRする、新しい地域循環型の協賛スタイルだった。
例えば、自動車部品の加工技術をスタジアムの改修工事の一部に活かす。地元の繊維工場がチームの新しいグッズを作る。
「そんな短期間で、200社も回れるわけが……」
絶句する田島に、恒一は頭を下げた。
「だから、田島さん、あなたの力が要るんです。僕と一緒に、浜松の全企業をローラー作戦で回りましょう。1日10社、2人で回れば1ヶ月で300社以上いける!」
田島は驚きで目を見開いたが、やがてその顔に、覚悟を決めた男の笑みが浮かんだ。
「……まったく、人使いの荒いGMだ。いいでしょう、やりましょう。東京のやり方と、浜松の根性、どっちが勝つか勝負です」
翌日から、真夏の浜松を、スーツ姿の男二人が大汗をかきながら走り回る姿があった。
額を地面に擦りつけるようにして、町工場の社長たちにクラブの未来を、浜松の未来を説いて回る。
断られ、塩を撒かれ、それでも二人は諦めなかった。
そして、9月の最終週。Jリーグの審査提出期限の前日。
大橋社長が、震える手でパソコンの画面を叩いていた。入金口座の総額が、ゆっくりと更新されていく。
「……7950万、7980万……」
オフィスにいた全員が、息を呑んで画面を見つめていた。
「――8020万円。……達成だ!!! 工事の発注証明書、出せるぞ!!」
大橋の叫び声とともに、オフィスが割れんばかりの歓声に包まれた。田島は男泣きし、大橋と抱き合っている。
恒一は椅子の背もたれに深く身体を預け、大きく息を吐き出した。窓の外を見ると、夕暮れの浜松の空に、新しいスタジアムの夜間照明の図面が、まるで大凧のように誇らしげに浮かんでいるように見えた。
ピッチの外の戦いは、勝った。
あとは、残りのリーグ戦。選手たちがJ3への切符を掴み取るだけだった。




