最終話:風の鳴る日
1
11月。遠州の空っ風は、いよいよその冷たさと鋭さを増していた。
JFLリーグ最終節。浜松ビッグカイトFCは、悲願のJ3昇格圏内である2位に位置していた。しかし、3位との勝ち点差はわずかに『1』。引き分け以下なら逆転される可能性がある、まさに背水の陣。
そして、その最終戦の相手は、今季途中から驚異的な追い上げを見せて4位に滑り込んできた『Jユナイテッド東京・ネクスト』。J1の常連であるメガクラブのセカンドチームであり、将来の日本代表候補となる若きエリートたちが集う集団だった。
「よりによって、最後の相手がここかよ」
スタジアムの通路で、立花蓮が冷たい笑みを浮かべていた。
Jユナイテッド東京――それこそが、2年前、大怪我を負った立花を「終わった選手」として容赦なく解雇した古巣だった。
「蓮。久しぶりだな。まさかこんな辺境の地方クラブで泥にまみれてるとは思わなかったよ」
通路の向こうから声をかけてきたのは、東京の若き新10番であり、現在の世代別日本代表のエース・千石だった。かつて立花の後輩であり、立花の背番号を奪った男だ。
「お前が潰れてくれたおかげで、今の俺がある。感謝してるよ。でも、今日の試合でトドメを刺してやる。お前らの『地方再生ごっこ』は、ここで終わりだ」
挑発する千石に対し、立花は一歩も引かなかった。
「お前、相変わらず口だけは達者だな、千石。本物の『10番』がどっちか、ピッチの上で教えてやるよ」
その様子を、恒一は少し離れた場所から静かに見守っていた。
立花の目は、怒りではなく、静かな闘志で澄んでいた。かつての独りよがりの天才は、もうここにはいない。
2
「観客数、公式発表が出ました。……1万2千人。スタジアムは超満員です!」
田島が興奮を抑えきれない声で恒一に告げた。
改修されたばかりの照明塔が、秋の夕暮れのホームスタジアムを昼間のように白々と照らし出している。スタンドを埋め尽くしたのは、ユニフォームを着たサポーターだけでなく、法被を着た商店街の面々、そして汗水垂らして資金を出してくれた町工場の社長たちとその家族だ。
「みんな、俺たちの凧を揚げに来てくれたんだな」
大橋社長が呟く。
ピッチサイドでは、鷹宮監督が選手たちを円陣の中心に集めていた。
「いいか、お前たち」
鷹宮の声が、地鳴りのような歓声の中に響く。
「相手は東京のエリートだ。技術も、環境も、すべて向こうが上かもしれない。だがな、このスタジアムに吹いている風だけは、俺たちの味方だ。この街の全員が、お前たちの背中を押している。胸を張って、浜松のサッカーを見せてやれ!」
「おおおおお!」
ピーッ!
運命のキックオフのホイッスルが鳴り響いた。
試合は序盤から、東京の圧倒的なポゼッションサッカーに圧倒された。
千石を中心とした高速のパスワークは精密機械のようで、ビッグカイトの守備陣は防戦一方となる。前半15分、その千石の鋭いスルーパスから先制点を許してしまった。
「焦るな! 守備のブロックを崩すな!」
村瀬コーチが激しく指示を飛ばす。
しかし前半30分、さらに追加点を奪われ、0対2。スタンドに重苦しい沈黙が広がる。やはりJリーグの壁は、その育成組織であっても高すぎるのか。
その絶望の空気を切り裂いたのは、やはり新10番だった。
前半終了間際、中盤でベテランMFが身体を張って奪ったボールが、立花に渡る。
「千石! 見てろ!」
立花は、マークに付いた千石を嘲笑うかのような鋭いシザースで抜き去ると、ペナルティエリア外から迷わず右足を振り抜いた。
強烈なシュートは、遠州の空っ風に乗って鋭く変化し、相手キーパーの手を弾いてゴール左隅へと突き刺さった。
ゴォォォール!
「よっしゃあああ!」
立花は吼え、味方を鼓舞するように自陣へと走る。1点差。命綱はまだ繋がっていた。
3
後半に入ると、試合は完全に「肉弾戦」の様相を呈した。
「絶対に、J3に行くんだ!」
ビッグカイトの選手たちは、激しい風の中、文字通り泥まみれになって走り続けた。町工場の社長たちが「いけー!」と声を枯らし、子供たちが太鼓を叩く。
後半25分。村瀬コーチの狙い通り、前線からの連動したプレスで相手のミスを誘い、泥臭く同点ゴールをもぎ取った。
2対2。あと1点。勝てばJ3昇格だ。
しかし、東京も意地を見せる。千石を中心に猛攻を仕掛け、ビッグカイトのゴールを脅かす。キーパーの決死のセーブと、ディフェンス陣の文字通りの肉体の壁で、なんとか失点を防ぐ展開が続いた。
残り時間はアディショナルタイムの3分。選手たちの足はもう限界を迎えていた。
誰もが、引き分けでの「終戦」を覚悟しかけた、その時だった。
自陣深くでボールを拾った立花蓮が、猛然とドリブルを開始した。
「まだ走れるのか、あいつ……!」
フロント席で恒一は立ち上がった。
東京のディフェンダーが2人、3人と立花を潰しにかかる。かつての立花なら、ここで強引にシュートを狙い、潰されていただろう。
しかし、立花の視界には、逆サイドを全速力で駆け上がるジャージ姿の――いや、泥だらけのユニフォームを着た仲間たちの姿が、はっきりと見えていた。
「俺は、一人で飛んでるんじゃねえ!」
立花は相手を引きつけるだけ引きつけると、ペナルティエリアの手前で、背後から走り込んできたキャプテンへ、完璧なヒールパスを出した。
意表を突かれた東京の守備陣が一瞬、凍りつく。
キャプテンが放ったシュートは、キーパーに阻まれ、高く宙に跳ね上がった。
「押し込めぇぇぇ!」
ベンチから鷹宮監督が叫ぶ。
そのこぼれ球の落下点に、誰よりも早く飛び込んできたのは、他でもない立花蓮だった。
相手ディフェンダーと激しく激突しながら、立花は頭を投げ出した。
泥まみれの頭が、ボールを捉える。
ゆっくりと、しかし確実に、ボールは東京のゴールラインを割った。
――ピー、ピー、ピーッ!
その瞬間、スタジアムを包んだのは、耳を劈くような歓声と、鳴り止まない拍手の嵐だった。
3対2。大逆転。そして、試合終了のホイッスル。
「勝った……。本当に、勝ったんだ……」
大橋社長がボロボロと涙を流し、田島は子供のように恒一の肩を叩いて泣き叫んでいた。
ピッチの上では、選手たちが立花の上に重なり合い、手荒い祝福を浴びせている。立花は、夕暮れの照明に照らされながら、空に向かって力強く拳を突き上げていた。
恒一は、スタンドを見上げた。1万2千人の笑顔。このコロナ禍で、誰もが苦しみ、下を向いていた街の大人たちが、今、心の底から歓喜し、抱き合っている。
東京で全てを失い、這うようにして戻ってきた故郷。
そこで恒一が見つけたのは、失ったはずの「仲間」であり、新しく紡いだ「絆」だった。
鷹宮監督が恒一の隣に歩み寄り、静かに言った。
「相馬。いい風が吹いたな」
「ええ」
恒一は深く頷き、眼鏡の奥の目頭をぬぐった。
「逆風の中でこそ、凧は高く揚がる。……僕たちの凧は、ようやく空へ飛び立ったばかりです」
浜松の冷たくて強い空っ風の中、新しく灯った照明塔の光は、未来のJ3の舞台を、そしてこの街の明日を、どこまでも明るく照らし出していた。
完




