第4章:一人で揚がる凧はない
1
試合当日、ホームスタジアムは、これまでにない異様な熱気に包まれていた。
「おい、相馬! 約束通り、商店街の若い衆を叩き起こして連れてきてやったぞ!」
かつて居酒屋で恒一を怒鳴りつけた凧揚げ会の組長が、お揃いの法被を羽織った男たちを引き連れて現れた。彼らだけではない。地元の商店街から集まった人々、そして市民スポンサーとなった家族連れが、寂れていたはずのスタンドをチームカラーの青と白で埋め尽くしていく。
「すごいな……。これだけの観客が入ったのは、JFLに降格して以来初めてです」
チケット売り場で入場者数の数値を凝視していた田島が、信じられないといった様子で呟いた。その目には、微かに涙が浮かんでいる。
「田島さんが地元の人たちに頭を下げてくれたおかげです。でも、ここからが本番だ。客席は満点。あとはピッチで彼らがどう応えるかだ」
恒一はグラウンドを見つめた。
対戦相手の「FC富士宮」の選手たちが、王者の風格を漂わせてウォーミングアップを行っている。J3経験者をズラリと揃え、今季いまだ無敗。圧倒的な組織力を誇る首位チームだ。
一方、ビッグカイトFCのベンチ裏では、新10番・立花蓮が鋭い眼差しでスパイクの紐を締め直していた。
「おい、立花」
恒一が声をかけると、立花は顔を上げずに応えた。
「わかってるよ、GM。泥水をすすってでも勝つんだろ。あのオッサン連中が吹かせた風だ。俺が一番高く跳んでみせる」
2
ピーッ!
主審のホイッスルが響き、前半が開始された。
試合は、立ち上がりからFC富士宮の猛攻にさらされた。
「スライドしろ! スペースを埋めろ!」
ベンチから村瀬コーチが必死に声を張り上げる。富士宮の精密機械のようなパスワークに対し、ビッグカイトの若い守備陣は走らされ、スタミナを削られていく。失点こそ免れているものの、防戦一方の展開が続いた。
ボールを奪っても、前線へのパスは急ぐあまり精度を欠く。その中で、立花蓮だけは牙を剥き出しにしていた。
「よこせ! 俺に預けろ!」
立花が中盤まで下がってボールを呼び込む。そして、パスを受けた瞬間、爆発的な加速で敵のディフェンダーを置き去りにした。
「おおっ!」とスタンドが沸き立つ。
しかし、富士宮は立花の個人の実力を完全に警戒していた。立花がペナルティエリア付近まで侵入した瞬間、すかさず3人のディフェンダーが包囲網を敷く。
「蓮、右がフリーだ! 出せ!」
味方のフォワードが叫ぶが、立花はパスを選択しなかった。強引に突破を試み、強烈なタックルを浴びてピッチに転倒する。無情にもボールは奪われ、富士宮の鋭いカウンターが炸裂した。
前半38分。富士宮の鮮やかな崩しから、ついに先制点を奪われた。
0対1。
前半はそのまま終了し、重苦しい空気のまま選手たちはロッカールームへと引き揚げていった。
「なんでパスを出さない!」
「お前一人のチームじゃないんだぞ!」
ロッカールームに入るなり、味方のベテラン選手が立花に掴みかかろうとした。立花はそれを冷たくあしらう。
「お前らに出しても、どうせトラップミスして奪われるだけだろ。俺が一人でシュートまで行く。それ以外に勝つ方法があるか?」
「なんだと、このガキ……!」
一触即発の空気を引き裂いたのは、鷹宮監督の乾いた平手打ちだった。
バチンッ、と激しい音が響き、全員が凍りつく。叩かれたのは、立花だった。
「勘違いするな、立花」
鷹宮は、赤くなった立花の頬を冷徹に見据えた。
「お前の技術は一流だ。だが、今のプレーはただの独りよがりだ。一人で走るドリブルなど、どんなに速くても組織の前には無力。この浜松の風はな、お前一人のために吹いているんじゃない」
鷹宮はホワイトボードに素早くマグネットを並べ替えた。
「いいか。凧ってのはな、糸を引く奴がいて、風を受ける面があって、初めて空に揚がるんだ。誰一人欠けても、空でバラバラになって落ちる。お前が飛び立つための『糸』を信じろ」
村瀬がすかさず補足する。
「立花、お前が引きつければ、富士宮のディフェンスは必ず3人寄る。その時、逆サイドのスペースは完全に空いている。お前の視野の広さなら、その『糸』が見えるはずだ」
恒一は、黙って下を向く立花の肩にそっと手を置いた。
「立花。僕たちは、お前の才能に賭けたんだ。でも、チームメイトもお前に賭けている。お前を信じて、後ろで泥まみれになってボールを奪い返している奴らを見てくれ」
立花は、泥と汗で汚れたユニフォームを着たチームメイトたちの顔を、一人ずつ見つめた。誰もが息を切らしながらも、まだ闘志を失っていない。
「……ちっ。一回だけだぞ。一回だけ信じてやる」
立花は乱暴に髪をかきむしり、ピッチへと戻っていった。
3
後半開始。
風はさらに強さを増していた。
ビッグカイトFCの泥臭いプレッシングが、徐々に実を結び始める。ベテランのセンターバックが身体を投げ出して富士宮の攻撃を阻み、こぼれ球を泥まみれになりながら回収した。
「蓮!」
泥だらけのボールが、中央の立花へ繋がる。
富士宮の守備陣が、前半同様に立花を潰しにかかる。また強引に突破するか――誰もがそう思った瞬間だった。
立花の視野に、逆サイドを猛然と駆け上がる味方サイドバックの姿が映った。前半、愚直に走り続けていたが、一度もボールが出てこなかった若手だ。
(……走ってやがる、信じて)
立花は相手を引きつけ、極限までタメを作ると、右足のアウトサイドで魔法のようなスルーパスを放った。
ディフェンダー3人の間をすり抜け、完璧な放物線を描いたボールが、無人のスペースへと転がる。
「通った!」田島がベンチで叫んだ。
走り込んだサイドバックがダイレクトでゴール前へクロスを上げる。そこへ飛び込んだのは、泥まみれになりながら走り込んできたベテランフォワードだった。
ドンッ!
頭で合わせたボールが、富士宮のゴールネットを揺らした。
「ゴォォォール!!」
スタジアムが、地鳴りのような大歓声に揺れた。太鼓が打ち鳴らされ、法被を着た男たちが総立ちになって叫んでいる。
得点したベテランに選手たちが駆け寄る中、立花はポツンとピッチに突っ立っていた。そんな立花の背中を、アシストを受けたサイドバックが「ナイスパス!」と激しく叩き、全員で立花を取り囲んだ。
「痛えよ、バカ」
悪態をつきながらも、立花の口元には、かつての「神童」の輝かしい笑顔が戻っていた。
「見たか、相馬」
鷹宮が不敵に笑い、恒一の肩を叩いた。
「これが、俺たちの『ビッグカイト』だ」
試合はそのまま1対1の同点でホイッスルが鳴った。首位相手の価値ある勝ち点1。しかし、スタジアムに響く拍手は、まるで勝利したかのような温かさに満ちていた。
「相馬GM、これなら、いけますよ。私たちは、本当に這い上がれるかもしれない」
田島が興奮した様子で恒一の手を握った。
「ええ。でも、これはまだ最初の一歩です。僕たちの凧は、もっと高く揚がらなきゃならない」
恒一は夕暮れの空を見上げた。強い遠州の空っ風が、今度はクラブの背中を力強く、どこまでも押し上げているように感じられた。




