第2章:冷たい風と、最初の1ピース
1
「予算は、これだけだ」
社長室で大橋が提示した書類を見た瞬間、恒一は思わず頭を抱えた。
「……絶望的だな。東京の居酒屋を1店舗リニューアルするのだって、もう少しマシな予算を組むぞ」
「笑えない冗談はやめてくれ。これでもJFLのライセンスを維持するために、かき集めた方なんだ」
大橋は疲れた顔で頭を下げた。コロナ禍は地方クラブの命綱である地元企業の広告費を直撃していた。現在のスカッド(選手構成)は、主力選手が次々とJリーグのクラブへ引き抜かれ、残ったのは経験の浅い若手と、全盛期を過ぎたベテランばかり。まともな補強などできるはずもない予算だった。
そこへ、ノックもそこそこに部屋へ入ってきたのは、フロント古参の田島だった。
「相馬GM、さっそく東京のコンサル上がりの実力を見せてもらいたい。今朝、J3のクラブから、うちの唯一の得点源だった若手フォワードに完全移籍のオファーが届いた。違約金は満額払うそうだ。クラブの財政を考えれば、すぐにでも売却の手続きを進めるべきですが?」
田島の目は「お前にこれが処理できるか」と試すように光っていた。
「いや、断る。彼は売らない」
恒一は即座に答えた。
「何ですって!? チームの赤字を埋めるチャンスを捨てるというんですか!」
「目先の数百万、数千万のために、J3昇格という『最大のリターン』を捨てるわけにはいかない。フォワードを失えばチームは完全に失速し、サポーターも離れる。それは経営において最もやってはいけない『未来の切り売り』だ」
恒一は立ち上がり、田島を真っ向から見据えた。
「お金がないなら、別の方法で価値を生み出す。それがGMの仕事だ。田島さん、移籍の件は私が直接断りを入れます」
田島は忌々しげに舌打ちをして、部屋を去っていった。大橋が心配そうに声をかける。
「断るのはいいが、恒一、本当にアテはあるのか?」
「……これから作るさ。コーチの村瀬を呼んでくれ。すぐにでも始めたい」
2
クラブハウスの片隅で、恒一とコーチの村瀬はノートパソコンの画面を見つめていた。
「相馬GM、あなたが探している『低予算で、かつチームの起爆剤になる選手』の条件に合致するデータは、国内に一人しかいません」
冷静沈着な村瀬が、一つの動画ファイルを再生した。
画面の中で、圧倒的なスピードと神がかったパスセンスで敵陣を切り裂いている青年がいた。
「立花 蓮、23歳。一昨年までJ1の強豪クラブで10番を背負っていた天才です」
「知っている。世代別の日本代表でもエースだった男だろ。なぜそんな大物がJFLの、うちなんかに来る?」
「素行不良、そして大怪我です」
村瀬は淡々と続けた。
「監督やチームメイトとの衝突を繰り返し、おまけに右膝の前十字靭帯を断裂。所属クラブを契約満了でクビになり、現在はどこのクラブにも所属していません。リハビリは終えているようですが、その『取扱注意』の性格から、リスクを恐れてJリーグのクラブはどこも手を挙げない状態です」
「才能は本物、だけど致命的なワケあり、か」
恒一の目が細くなる。東京の飲食経営でも、他店でトラブルを起こして居場所をなくした一癖ある料理人が、環境を変えた途端に化けてミシュランの星を獲る姿を何度も見てきた。
「彼はいま、どこにいる?」
「……ここ、浜松です。実家に戻って、一人でトレーニングを続けているという噂です」
3
翌日、恒一は浜松市内の河川敷にあるグラウンドへ向かった。
強い遠州の空っ風が吹き抜ける中、一人で黙々とボールを蹴る青年がいた。立花蓮だ。
「いいキックだ」
声をかけると、立花は不機嫌そうに動きを止め、ボールを足元に収めた。
「誰? マスコミなら帰ってよ」
「浜松ビッグカイトFCのGM、相馬だ。お前をスカウトしに来た」
立花は鼻で笑った。
「JFLの下位クラブ? 冗談だろ。俺はまたJ1の、満員のスタジアムでプレーする男だ。アマチュアに毛が生えたようなチームで泥にまみれるつもりは無いね」
「今のお前に、その『満員のスタジアム』を用意してくれるクラブが、世界中のどこにある?」
恒一の冷徹な正論に、立花の顔が強張る。
「怪我をして、生意気で、組織を乱す天才。それが今のお前の市場価値だ。どこからも声がかからないまま、ここで一人で風に吹かれて現役を終えるか? それとも、俺たちのクラブで、もう一度自分の価値を世界に証明するか」
「うるさいな……何も知らないくせに!」
立花が激昂したその時。
「――だったら、俺が知ってやる」
グラウンドの土手を降りてきたのは、ジャージ姿の監督、鷹宮恒一郎だった。
「鷹宮監督……なぜここに」
驚く恒一を無視し、鷹宮は立花の前に立つと、自身の足元にあったボールを立花に向けて強く蹴り出した。
「おい、元10番。お前のその腐りかけたプライドが本物かどうか、俺が直々に試してやる。俺から一本でもパスを通してみせろ」
「はあ? 40過ぎたオッサンが何言って……」
「来い!!」
鷹宮の咆哮が河川敷に響き渡る。
かつて日本中を熱狂させた伝説のストライカーと、居場所を失った若き天才。新旧の意地が、激しい風の中で激突した。
立花が鋭いドリブルで仕掛けるが、鷹宮は全盛期を彷彿とさせる圧倒的なフィジカルと読みで、泥臭く身体を投げ出してそれを阻む。何度も地面に倒れ込みながらも、二人は無我夢中でボールを追いかけた。
「……くそっ、なんで、なんで止められるんだよ!」
息を切らし、膝をついた立花に、泥だらけになった鷹宮が手を差し伸べた。
「お前のキックには迷いがある。だが、スピードも、視野の広さも錆びついちゃいない。立花、お前のその腐りかけた才能、俺のチームで預からせろ。もう一度、日本代表まで押し上げてやる」
立花は差し出された鷹宮の手を見つめ、それから、じっとこちらを見ている恒一を見た。
「相馬GM……だったな。条件がある」
立花は荒い息を整えながら言った。
「俺の給料は、チームで一番安くていい。その代わり、俺が活躍してJ3に昇格させたら、来年はJ1のクラブが腰を抜かすような契約を用意しろ。……それと、背番号は10番だ」
恒一はフッと笑い、右手を差し出した。
「交渉成立だ。歓迎するよ、ビッグカイトFCへ」
遠州の空っ風が、三人の髪を激しく揺らしていた。
クラブ再建のための、最初のピースが今、嵌まった。




