第1章:吹き荒れる逆風
1
令和2年、5月。東京。
緊急事態宣言下の歓楽街は、不気味なほどに静まり返っていた。
相馬恒一は、自身が経営していたイタリアンバルの店内で、一人パイプ椅子に腰掛けていた。厨房の火は消え、冷蔵庫のモーター音だけが虚しく響いている。手元にあるのは、4店舗すべての閉店手続きを終えた書類の束だ。
「……全部、消えたか」
40代前半。人生のすべてを賭けて築き上げてきた城が、目に見えないウイルスの手によって、わずか数ヶ月で砂の城のように崩れ去った。
かつて高校サッカーで全国の舞台を目指し、大怪我で挫折した時もこれほどの絶望は味わわなかった。あの時はまだ、走れなくなった足の代わりに、動かすべき頭と情熱が残っていた。しかし今は、資金も、仲間も、未来も、すべてを失った。
鳴り響いたスマートフォンのバイブレーションが、静寂を切り裂いた。
画面に表示されたのは、地元の親友であり、JFL(日本フットボールリーグ)に所属する地元のクラブ『浜松ビッグカイトFC』の社長を務める大橋の名だった。
『……恒一か? 店、大変だったな』
「ああ。全部畳んだよ。破産手続きも終わった。今はただの無職のオッサンだ」
自嘲気味に笑う恒一に、大橋は引き締まった声で言った。
『なら、ちょうどいい。浜松に戻ってこい。お前の力を借りたい』
「力を貸す? 潰れた飯屋の元オーナーに何ができる」
『サッカーだよ。お前が一度は捨てた、だけど一番詳しいはずの、サッカーだ。うちのGMになってくれ。チームを、俺たちを救ってほしい』
2
数日後、恒一は新幹線を降り、故郷である静岡県浜松市の駅前に立っていた。
南口を出ると、アクトタワーが5月の青空に向かってそびえ立っている。東京のどんよりとした空気とは違う、どこか乾いた、強い風が恒一の頬を叩いた。遠州の空っ風だ。
大橋に連れられて向かったクラブ事務所は、お世辞にもプロのそれとは言えなかった。プレハブ小屋に近い古い建物。J3昇格を目標に掲げながらも、現在の順位はJFLの下位に低迷している。
「おいおい、大橋。正気か?」
事務所の会議室で、フロントの古参スタッフである田島が、机を叩いて声を荒らげた。
「いくら社長の友人だからって、サッカー界から何十年も離れてた素人をいきなりGMに据えるなんて、サポーターやスポンサーに顔向けができませんよ! クラブにはクラブの『伝統』と『やり方』があるんです!」
田島は、クラブの創設期から関わっている男だ。そのプライドと、余所者への警戒心は隠そうともしなかった。
恒一は静かに田島を見つめ、言った。
「田島さん。お言葉ですが、その『伝統』と『やり方』を続けた結果が、現在のリーグ最下位、そしてコロナ禍によるスポンサー離れによる財政危機なんじゃないですか?」
「なんだと……!」
「私はビジネスのプロとしてここへ来ました。今のこのクラブは、潰れる寸前の飲食店と同じです。味(戦術)が良くても、経営が腐っていれば店は潰れる。変革を恐れるなら、このクラブに未来はありません」
鋭い恒一の視線に、田島が息を呑む。
緊迫した空気を破ったのは、会議室のドアが開く音だった。
「――面白い。そこまで言うなら、お前の手腕、見せてもらおうか」
現れたのは、鋭い眼光を放つ男。鷹宮恒一郎だった。かつてビッグカイトFCが国内トップリーグで奇跡の優勝を果たした際、決勝ゴールを決めた伝説のエースストライカーであり、現監督だ。
その背後には、元キャプテンで現在はコーチを務める冷静な男、村瀬も控えていた。
「鷹宮監督……」
恒一が呟くと、鷹宮は腕を組み、不敵に笑った。
「フロントがどれだけ綺麗事を並べても、ピッチで勝てなければ意味はない。俺は勝つためにここにいる。お前は俺に、勝てる駒(選手)と環境を揃えられるか?」
村瀬も一歩前に出て、手元の資料を広げた。
「現状の失点率はリーグワーストです。守備の崩壊は戦術だけでなく、選手のモチベーションと、フロントとの信頼関係の欠如にも起因しています。相馬新GM、あなたの『改革』とやらが、単なるコストカットではないことを祈りますよ」
3
その日の夕方。恒一は一人、ホームスタジアムのピッチの傍らに立っていた。
誰もいないスタンド。芝生の匂い。
かつて自分が怪我で諦めた、緑の四角い世界がそこにあった。
「J3昇格、そして、もう一度リーグの頂点へ……か」
前途多難どころではない。内憂外患。フロントの反発、現場の不信感、そして激減した予算。東京で全てを失った自分に、この巨大な凧の糸を操ることができるのだろうか。
ふと見上げると、夕暮れの浜松の空に、強い風が吹いていた。
激しい遠州の空っ風に逆らうように、地元の少年たちが揚げている小さな凧が、ぐんぐんと高度を上げていくのが見えた。
――逆風の中でこそ、凧は高く揚がる。
「やってやるさ」
恒一は呟き、強く拳を握りしめた。
潰れかけたクラブと、すべてを失った男の、命懸けの巻き返しが今、始まる。




