第167神 秩序を守りし者達よ
そうして、次第に静かになったみくまりが、ようやく呟いた。
「…、われ、は」
「──我は」
何かを思い出そうとして、みくまりは目を瞑る。
"みくまり"
『……叶兎ぉ…』
泣けないはずの神様がほたほた、と床に水を落としていく。
それはまるで、涙のように。
『我は…我はぁ…』
『……もっとお前と共に居たかった…』
名前を思い出せたこと、忘れていた記憶が蘇ったことでみくまりはさめざめと声だけで泣く。
「…涙が出ない、というのも…苦しいですね」
「……そうだね。その機能が無いから、神といえるけど同時に…とても悲しい、生き物だ」
珊瑚さんと俺の言葉が聞こえていない、みくまりは美鈴さんを見る。
『──似てる、似てるよ美鈴』
「…なに」
『お前は、あの子と似てる』
するり、美鈴さんの頬に触れたみくまりの手は、もう濡れていなかった。
『兄妹だなぁ』
「──は、ぁ…っ」
美鈴さんから涙がこぼれ落ちる。その涙はみくまりの手に滴り落ちた。
「……っばか!」
身体を震わせて声を上げた美鈴さんを見ながらみくまりが微笑む。
『うん、ごめんなぁ』
「ばかよ!!ばかばかばか!!みくまり様のばか!!」
『うん。うん…』
「私が、っどれだけお兄ちゃんとあなたを心配してたと思ってるの!」
『……うん』
「…っ、今度お兄ちゃんと一緒に戻ってこなかったら許さないんだから…!」
『……戻ってきていいのか?』
「…当たり前じゃない!!家族なんだから!」
怒る美鈴さんにみくまりが笑う。
そうだな、そうだなぁ。我らは家族だったなぁ。と
『ありがとう、蓮、珊瑚。君たちのおかげで我は思い出せたよ』
「…忘れてた人の名前も、思い出せましたか?」
『──ああ、大切な、大切な名前を思い出せたよ』
『名前も、我の物語も』
『思い出すことができた』
そう呟いたみくまりは少し寂しそうな顔をする。
『ありがとう、思い出させてくれて』
『────しかし、この管掌を我が手放すわけにはいかない。だから我は消えることはできない』
マガツヒに感染した神秘のほとんどは消えていた事を思い出す。
そこで区切ったみくまりは美鈴さんをもう一度撫でて笑う。
『だが、ここを閉じることはできる』
「──閉じる?」
それでは消えないのと同じではないのだろうか。
『そのままの意味だ。我の姿は消える。役割のみが残る』
「……つまり、みくまり様とは今後、その姿で会うことはできないってことですか…」
『ああ、そうだよ。我はずっとこの神域に閉じこもる』
それは、どうなるんだ…?
以前は幻治郎さんがそのまま閉じていたが、神自身が閉じるということは──。
「い、いや、嫌よ……っ!」
美鈴さんが頭を抱えて、叫んだ。叫んだまま、みくまりの手を握る。
俺と珊瑚さんは唖然と見上げてしまう。
「ねえ、消えない方法はないの?!」
腕を掴んでみくまりに抱きつく。
『マガツヒに一度感染した我に、その手段は許されない』
「…っ、なんで!」
『美鈴』
「いや!聞きたくない!!」
『君たちのことを、これからも見守ってるよ』
蓮水さんがみくまりの後ろからやってくる。
「は、蓮水…、あんたならなんとかできるんでしょ、ねえ!」
蓮水さんはみくまりの方へと向き、右手を胸に手を置いて頭を下げた。敬意を示すような、それでいて弔っているようなそんな背中に見える。
蓮水さんが何かを唱える。途端に、みくまりの身体がじわりと溶けるように水が落ちていく。
みくまりが片手を上げた。
すると突然俺たち全員の身体が浮かぶ。
「わ、わっ…!」
『さようなら、人の子達。次の未来で出会う時、』
そこで区切ったみくまりの瞳は澄んだ川の底のような、懐かしさを感じる目と声で伝えてくる。
『平和な世界であることを願っている』
「いや!」
暴れる美鈴さんをものともせずに、みくまりは軽く手を振る。身体を捻って振り向くと蓮水さんがもう一度頭を下げてからみくまりから背を向けた。
その表情は、一つの覚悟を受け取った統治神としての顔に見える。
「いやぁあ!!!」
美鈴さんが手を伸ばす。
しかし無慈悲にも、みくまりは俺たち3人を鳥居の外に放り出した。
「いっ、た…」
うまく受け身も取れず階段に座り込む。鳥居から最後に出てきた蓮水さんが、鳥居を軽く叩くような音が聞こえてきた。
────バタン
まるで扉が閉まったかのような音に俺たちは振り向く。
放り出された階段の上に唖然と座っているといち早く動いた美鈴さんが鳥居を潜ろうとする。
しかし、何かに塞がれているように中に入れない。
「──閉じる、って…」
この鳥居ごと…?
ふと、鳥居の中を見ると、湖の水が一気に引いているのが見えた。
「…全てのツケを支払った、ってことかよ」
助けたのは自分たちなはずなのに、神という生き物はいつまで経っても俺たち人間を守ろうとする。
「なんで…っ、なんでぇ…」
泣き崩れる美鈴さんは入ることのできない鳥居を前にしてしゃがみ込みながら、涙を流していたのだった。
鳥居の中では完全に引いた真ん中にポツリと赤い鳥居と共に社がそこにあった。
じんわりと、その神域が見えなくなっていく。
「…やめてください、なんで…っ」
「なんで、こんな…っ!」
鳥居に寄りかかっていた身体が突然、フッと軽くなる。
ぺしゃりと体が地面に倒れる。周りの人たちが怪訝な顔をしているが、許してほしい。
神域が完全に閉じたということは、鳥居の中は現世に戻ったということなのだから。
" ……みくまり様は、還られましたか… "
現世にいたカワウソたちが俯きながら、震えた声で問う。
" みくまり様は……っ、苦しんでおられましたか…! "
「────いや」
俺と美鈴さんが答えられない代わりに、珊瑚さんが答えるり
「…スッキリした顔して全部のツケを払って消えたよ」
声を押し殺すように泣く美鈴さんの背中を河童が撫でる。
カワウソが代表するように呟く。
" …苦しんで、おられなかったのなら…っ、我らはそれでいい "
" それでいいのです…今度は我らがこの地を、守るだけですから "
" ありがとうございました。
秩序の守り人。守護者の皆様。我らが神を救ってくださり、本当に… "
一歩前へと進んだカワウソは声だけ震わせる。
"本当にありがとう、ございました…ッ"
頭を下げた妖怪達に、俺たちはなにも言えなかった。
救ったはずなのにどこか虚しさが残る。
カワウソ達の声だけが震えているのを聞いて、神秘が泣けないことを思い出す。
今日、この日。俺は守護者という職業の意味が広がるのを感じた。




