第166神 水を分けると書いてみくまりと呼ばれた
水面が揺れる。
蝶々に見せられた記憶に、俺と珊瑚さんは頭を軽く抱えた。
「……桔梗、さんって…」
「もう居ないね……朝梨ちゃんっていう女の子のお姉さん、俺も昔はよく遊んでもらってたな……。そうか、貴方は関わりがあったんですね」
思わず、龍を見上げる。
自分たちですら今の記憶で自然と涙が流れて止まらないのに、この神様はこれを抱えていたのか。
隣で美鈴さんが、みくまりの顔のあたりに抱きついて必死に叫びながら、涙を流す。
「…みくまり様、みくまり様、あなたの名前はみくまりです。水に分けると書いて、」
「水分と、あなたが自分でそうおっしゃったではありませんか!!」
悲痛な叫び声に、みくまりの大きな身体が反応する。
『…われ、は……』
ぴくりと何か呼応するかのように、みくまりの身体が少しずつ小さくなっていく。
「…名前を、思い出せたんですかね…?」
「…いや…。でも、間違いなく西瀬さんの声は聞こえてるだろうね」
マガツヒに感染している状態で、名前や状況なんてわからなくなることが多かった。
カケラを壊して初めて見えるはずの記憶のカケラをシオン様の力で擬似的に見せられたからか、みくまりが反応しているのかもしれない。
美鈴さんは少しずつ小さくなっていく身体を前にそれでも顔の目の前から離れずに必死に言葉を紡いでいく。
「みくまり様です!西瀬家が守り続けた、神様で。蒼穹の地を守る神様です!」
「あなたがいたからこの地は水源が保たれて、水の妖怪たちが蒼穹で過ごせた!!」
湖の色が黒から薄くなってくる。
「あなたの物語は、妖怪の子どもを育てて、守って、この地に水を分けた。私たち西瀬が、貴方に社を作った、貴方のために…っふ、ぅ…」
涙を流しながら美鈴さんが、みくまりの身体に抱きつくように手を添える。
美鈴さんの肩を優しく撫でるように珊瑚さんが触る。俺も、みくまりの鱗の一つに触れてみる。艶々としたその黒い鱗は、誰もが見惚れるような漆黒の色をしている。
誰かを守り続けてきた、龍の姿。
美鈴さんが手を握りしめる。
「あなたと共にあるために……ッ、私たちはここにいた…!」
「置いていきません、置いて行ってなどいません。あなたを覚えてる人がここにいます、忘れても何度だって、思い出させます!!」
ジワッ…。
黒い竜から煙が出始め、少しずつ、少しずつみくまりの姿が小さくなっていく。
唖然と見上げる俺とその横で涙を拭う美鈴さん、慰めるように背中を撫でる珊瑚さん。
みくまりは気付けば鳥居と同じくらいの大きさにまで小さくなっていた。
「何度だって、伝えるから……ッ」
「戻ってきてよ、みくまり兄様……ッ」
『────わ、れは…』
鱗が顔から順番に、黒から灰色に。灰色から、透き通るような白に変化していく。全ての鱗が白くなった瞬間、真っ黒だった湖も途端に色が落ちていく。
水面で浮かんでいたクラゲが消えて、鳥居に座っていた蓮水さんがようやく息を吐いた。
頭よりも明らかに高かった水面は足元にまで下がり、靴にかかるか、かからないか程度にまで落ち着いた。その湖の色は想像していたよりも透明感にあふれていて、淡い水色のような色へと変化する。
湖の中にいなかった魚が現れ始め、感染した瞬間に溶けた建物たちが世界が透き通るほど綺麗な水となって作られていく。
俺と珊瑚さんは神域全体を見上げる。
「…!届いた!」
「成功だ西瀬さん!」
「…は、ぁ…ふぅ…ッ、ぅッ……」
ぼろぼろと涙をこぼす美鈴さんの背中を撫でる。
自分たち同じ大きさにまで縮んだみくまりにホッとする。
『…我、は……』
ごぽごぽと、割った左右の水から聞こえてはいけないような音が聞こえてくる。
『何故、何故なんだ…ッ!!』
沸騰したかのように水柱が上がる。
「うわ、落ち着いてませんね!?」
「まあそう簡単にはいかないよねえ」
みくまりの荒々しく叫ぶ声が脳内に響くように聞こえてくる。
『返してくれ…名前を…!我の大切な…子らの名前を…!』
よく見ると、みくまりの喉にマガツヒが光っている。
「龍の逆鱗ってか…っ」
「よりによって喉かい…!」
水柱が、水面からだけでなく、割った側面からも出てくる。
「うわっ」
珊瑚さんは力が抜けてしまっている美鈴さんを抱えて飛ぶ。
「戦場で座り込むのは感心しないと俺は思うけど?」
「…う、うるさい!」
◆
『我の……我は!!』
みくまりが、ゆらりと揺れる。
『あいつの名前も、思い出せない!!』
叫ぶ声は悲痛で、痛々しく、どこかで泣きたいと言ってるように聞こえた。涙が枯れているんじゃなくて、その代わりに聞こえる声や態度全てがみくまりの守護者を思い出せない悔しさで包まれていた。
──神様は、泣けない。
泣く機能がないからだ。
それでも、その声は必死に叫んでいる。
……それゆえに、痛がる声を上げるしかできない。
『返してくれ、俺の守護者を…っ、』
『俺の守護者の、名前を…!』
忘れたくないんだ…!
龍の姿がゆらりゆらりと揺れて、人の姿になっていく。
腹が割れて赤い札がぶら下がっているようなお腹は奇妙で、けれどそれは記憶から消えた名前がぶら下がっていることに気づく。
伏字になった名前たちは、みくまりの記憶を見たからか、なんとなく読める。色んな人たちと関わってきたみくまりという市そのものである神からすると『名前』とは忘れられない記憶の一つなんだ。
そう叫ぶ、彼の姿に、胸が痛む。
みくまりを見上げて珊瑚さんは美鈴さんを抱えたまま呟く。
「──俺も、忘れてる人の名前があるよ」
珊瑚さんの声はどこか寂しそうで、悲しそうに声を顰める。
「好きだった人の、名前も顔も、忘れた。思い出せないんだ」
珊瑚さんは、美鈴さんを下ろしながら、みくまりから視線を逸らす。
そうして自分の右手を見つめてから切なそうに呟いた。
「あんなにも、愛していたのに……」
忘れてしまうことは、誰にでもあると思う。大切な記憶ほど、思い出せない時はとても辛い。無理やり記憶を暴かれるのも、苦しい。
それでも、その記憶が全て無かったことになっているのかといえば人は不思議なものだと俺は思う。
「…でも、覚えてることもあるんじゃないですか?」
俺の言葉に、みくまりが固まる。
珊瑚さんも俯いていた顔を上げて俺を見た。
俺は、全部の記憶が無くなったとは思えない。
だって、
「名前も顔も、忘れても」
「──それでも、あなたのその、楽しかったという感情や、その時の記憶までは」
「忘れてないでしょう?」
俺は前世の記憶を忘れていても、火雷たちに初めて会った時に懐かしい感覚があった。前世でハチスと関わりがあったからだって気づけたけど、それでも、覚えてることがある。
その時の感情は消えない。焦り、不安、懐かしさ、嬉しさ……。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
『マガツヒに…っ、感染してしまった今っ、この記憶が、おれは正しいのかがわからない…!わからないんだ…!!』
苦しむ神に、手を差し伸べる。
────俺は、人だけじゃなくて、こういう神様たちを救いたくて、ここにいるんだ。
小さな、平和を守りたくて。
「なら、思い出しましょう」
みくまりの手を掴む。
びっくりとしているみくまりに向かって刀を刺した。
「喉だから、痛いかもしれません。けれど……」
「──俺たちは、そのために来たんだから」
──パリンッ
カケラが割れる音。
……見えた記憶は、先ほど干渉した記憶の断片。
桔梗さんが笑い、美鈴さんのお兄さんがみくまりの手を取る。
みくまりが悲しみ、それでも。と手を伸ばした。
そんな記憶を美鈴さんも見ながら、泣き笑う。
「お兄ちゃんのかっこつけ…ッ!」
……確かに、死ぬ間際まで妹のことを頼むのはなかなかカッコつけなのかもしれないけど、でもそれは兄だからこそ言ってしまうものもあると思いますよ。
みくまりさんから距離を取って、みくまりさんを見上げた。珊瑚さんが美鈴さんの背中を撫でる。
みくまりの叫ぶ声が神域の中で響き渡ったのだった。




