第129神 記録は同じ
俺たちの頭上で宙に浮かんだ天使の姿。袋をベンチに置いて、桃梛と俺は天使から距離を取るように飛ぶ。
「光ってた、てことは、マガツヒだよね?」
「間違いない。首輪にあった!」
「──この前、天使を育てた人から天使がマガツヒに感染してるから対応してくれって依頼があったんだよ」
「天使を育てた人!?何それ…!」
「まあ、そうなるよなぁ。…その人から正しい記録を見せてくる天使がいるって言われたんだ」
天使の白くて短い髪の毛がゆらゆらと揺れる。
桃梛は俺から視線を外して、人の形をした、天使を見やる。
「…さっきこの天使、正しい記録って言ってたよね」
「…うん、多分依頼された天使なんだとは思う。ただ、場所が迷いの森──美空市?の辺りだって言ってたから隣の都市のはずなんだ」
「じゃあなんでこんな離れたところに…」
天使が両手を広げて、無機質な感情のない声で告げる。
【修正します。記録を修正します】
足元が地面から離れる。バランスが取れず足をばたつかせてしまう。
「は?…うわっ!」
「きゃっ…」
隣にいた桃梛も浮き始める。
だんだんと高さが増してきた。地面とはもう4メートルほど離れている。
「怖い怖い!!」
「なんでこんな浮かせてくるの!」
ふと視界に入る景色は土でできた地面と、フリーマーケットのテントに目がいく。その付近に集まる人々は全く動きを見せない。よく見ると表情や動きが止まっている。
「…どうりで静かなわけだよ!異空間に飛ばされたのか…ッ」
「みんな固まってる!」
【あなたたちの記録を訂正します】
振り回されるように身体が回転し、目の前の景色が一転、二転、と変わる。くらりと、目眩と吐き気。
「うぐ…」
「うぅ…ッ」
胃の中を掻き回されるようなそんな動きで俺たちはどこかに飛ばされた。
フリーマーケット内の人々の声が戻ってくる。
ガヤガヤとした賑わいの中トイレから戻ってきた龍牙はベンチに荷物だけ置かれているのを発見する。
「…あれ、蓮?桃梛?」
ベンチに座り、龍牙はぼーっと空を眺める。荷物を両手に持って立ち上がった。
「……そうだったそうだった、今日は俺一人で来たんだった。桃梛にどのプレゼントあげようかなぁ」
気分良さげにフリーマーケットの出口へと向かいなから、龍牙はひとつ微笑んだのだった。
◆
バタンと、落とされた先は、森の中。
「…ここ、迷いの森…?」
隣にいたはずの桃梛がいない。
「桃梛!?どこにい…」
辺りを見渡して状況を把握しようと立ち上がった瞬間、少女が横を通り抜ける。
「──え」
[待って、お父さん]
[全く、まな。早く行かないと置いてっちゃうぞ]
[やだ〜]
楽しそうな笑い声、見覚えのある女の子。
雨が降る。ぽつり、ぽつりと少しずつ体を濡らしていく。
この雨にも、覚えがあった。
「…あの子は、死んだんじゃ…」
雨水市での大災害で助けられなかった、あの亡くなった女の子がそこに笑って話していたのだった。
どこからともなく現れた、水に呑まれる。
まずい、まずい。溺れる。
いや、俺はあの時、あの子を救おうと手を伸ばしていた。
ほら、目の前で溺れてる。
助けることができたんだ。もっと早くに手を伸ばせていたら。
今なら、間に合う。
「捕まって!」
反射的に手を伸ばす。
──その瞬間。
【訂正します】
「……え?」
また、水に呑み込まれ、ビルの上に立つ。降り続ける雨は優しさに溢れている。見覚えのある、白い壁に、いつかの洪水の海が広がる。
声が、頭の奥で響いた。
【この子はここで死ぬのが“正しい”】
「……っ、は?」
そして、頭が濡れていく。雨が降っている感覚が全身に当たる。
呑まれた水は消え去り、俺が一人うずくまる。
[助けて!]
手を伸ばされる。そんなことされたら、どうしたって伸ばすしかなくなる。あの時よりも早くに、手を伸ばして少女の前に立つ。
「伸ばして!手を!」
あの時の再現のように、声を張り上げる。
──でも、ああ。
無機質な声が脳に響く。
【訂正します】
助からない。
崩れるはずのない高さの堤防、洪水で壊されないように高く作られている家屋が、ただのゴミのように雪崩を起こしているのは。
[いやぁぁあー!ままー!!]
[誰か助けてくれ!!じいちゃんが!]
たくさんの悲鳴、ざわめき、泣いている子どもや大人が水に浸かっていない屋上にいた、あの時のような再現。
「やめてくれ!!」
ピタリと水の塊が止まる。人知れず、その事実にほっと息を吐いた。
ずぶ濡れなことに変わりはなく、雨は変わらず降り続いているが、津波のような押し寄せる水が止まっているだけでも安心した。
抑揚のない、天使の声だけが脳内に響く。
【なぜ】
【なぜ?】
【これが正しい歴史です】
【これは正しい記録です】
【間違いなどありません】
「…間違いしかないんだよ…ッ」
こんなの、正しい歴史じゃない、救えない、毎回救えない!そうだ!救えなかったとも!!
それでも!
「それでも手を伸ばすことくらいはできたんだ…!」
蹲って、土に向かって握りしめた手を打ちつけるように叩く。
俺は、何度やってもきっと助けられない。
でも、手を伸ばせた、あの時があった。
「あの子の死を、冒涜すんなよ!!」
雨音が、この森を突き抜けるように響き渡る。落ちる雫がメガネに当たり視界がだんだんと馴染んでいく。無機質な天使の声が、僅かに揺らいだ。
【理解できません】
雨に濡れた土の香りが鼻腔に雨の匂いと混ざる。上から降り続ける雨とその声は無慈悲にも
【結果は同一です】
【死亡は確定しています】
【記録は正確です】
「……だからなんだよ」
濡れた髪の毛をそのままにゆっくりと顔を上げる。
「それでも、あの時の俺は」
ぐしゃぐしゃの顔のまま、笑ってしまう。喉から引き攣るようなその声に、自分の感情が限界を迎えてることに気づく。
「“助けようとした”だろ」
降り続ける雨は変わらず、俺の背中を濡らし続けていた。




