第38話:「高瀬川の夜、まだ名もなき星たち」
あれはまだ、昭和の匂いが川風に溶けていた頃。
学生だった僕は、高瀬川のほとり、「ワインリバー」という名のラウンジで、グラスを磨いていた。
ある夜、ママが声を張る。
「タカちゃん、入りよし」
現れたのは、ギターを抱えた男。
少し気だるく、少し尖っていて、でもどこか、火が消えきらない炭みたいな目をしていた。
「俺のツレもエエか!!」
そう言って連れてきたのが、もう一人。
こちらは、よく喋る。やたら喋る。
聞けば――鳴かず飛ばずの歌手と、売れない芸人。
その芸人の名が、のちの笑福亭鶴瓶だなんて、
その時の僕は、露ほども知らない。
ママがニヤリと笑って言う。
「またやったって?」
話を振られた歌手は、肩をすくめる。
祇園で弾き語りをしているが、態度の悪い客には――
タバスコ。時には、ママレモン(食器用洗剤)をかける。
「またやってもうたがな!!」
自嘲気味に笑うその顔は、
どこか悔しさを飲み込んでいた。
グラスの氷が、カランと鳴る。
夜は少しだけ深くなる。
やがて彼は、同じ言葉を繰り返す。
一杯ごとに、少しずつ熱を帯びながら。
「今に見ておれ!!」
一回。
二回。
三回。
――ホンマかいな、と僕は思う。
でもその声は、不思議と耳に残った。
その歌手の名は、
今はもう亡き
やしきたかじん。
あの夜、カウンターに並んでいたのは、
ただの“売れていない二人”だった。
けれど今思えば――
あれはきっと、
まだ名前のついていない星が、
静かに燃え始めた夜だったのだ。




